Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

上海と彭徳懐からの使者 『偉大なる道』第7巻①ー7

 汀州は、あきらかに、中国革命史上の転換点だった。上海にあった共産党中央委員会からの使者が、国内や国際情勢に関する報告書と別の種類の重要書類を持ってやってきたのは、まさに、この汀州の町であり、占領から2,3日あとのことであった。これらの文書のなかには、共産党第6回大会の報告と決議があった。この第6回大会は、中国国内のテロのため、1928年の夏、モスクワで開かれていた。またこれらの文書のなかには、コミンテルンの諸決定もはいっていた。コミンテルンの会議は、第6回大会のすこしあとに開かれ、同じ結論に到達していた。朱徳毛沢東に指導された軍隊が、彼らの党の中央委員会と接触したのは、この2年間でこれがはじめてであった。朱徳毛沢東たちは、彼ら独自の道をすすみ、必要性と確信にもとづいて行動していた。

 

 この上海からの使者がついて、わずか数時間後に、一人の農民が朱徳の司令部に入ってきた。彼は上着をひらいて、裏地のはしのあいだから、数行の文句を書いた布切れをとり出した。その書きものには、彭徳懐の名が署名してあった。彭は、朱徳毛沢東が、1929年1月、井岡山の山岳要塞をとりまいた敵の封鎖部隊をうち破って出たとき、井岡山に残して指揮をまかせた、若い司令である。それからあと、どういうことがおこったのか、朱徳毛沢東も知らなかったが、彭の手紙には、現在彼が瑞金にいて、朱徳毛沢東がこちらに来るか、それとも彼が汀州にいった方がよいか、知らせてほしいと書いてあった。瑞金は、江西南部の小さな県城で、汀州から西へほぼ2,3日の行程であった。

 

 多数の軍事および政治代表と、護衛隊一個大隊をひきつれ、さらに上海からの使者も同行させ、そのもってきた文書もたずえさえて、朱徳毛沢東はただちに瑞金へ向かって出発した。瑞金で、この不屈の厳格な男、彭徳懐は彼らにその後の物語をかたった――