Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

瑞金会議で立案された作戦 『偉大なる道』第7巻①ー11

 さて、瑞金会議は、毛沢東議長のもとに2つの独立した軍事的、政治作戦を立案した。第一の作戦は、朱徳毛沢東の指揮下に、江西省の南部および中央部の反革命勢力を粉砕して、福建省西部もふくめて、これらの地域を中央革命基地に転化するという計画であった。この基地は、さらにしだいに拡大されて、華南一帯に散在する人民の抵抗の島々を統合してゆくことになっていた。

 

 第二の作戦は、彭徳懐が指導し、井岡山地区にかえって、できれば、この地帯の人民運動を復活させる計画であった。そののち、彭徳懐は、彼の古い基地、江西省北西部のヘイキョウ鉱山地帯に進軍し、しだいにこの地域を強化し、拡大して、湖南、湖北両省の隣接地域を統合してゆき、最後には、南方に朱徳毛沢東が建設した中央ソビエト区と統一することになった。

 

 2週間休養し、そのあいだに汀州からついた新しい軍服を受けとって、彭徳懐と彼の部隊は、使命を達成するために進軍していった。一方、朱徳毛沢東は汀州へ帰った。1週間後、毛沢東は1千人の部隊をひきいて、興国から敵軍を追っぱらうために、江西省中央部にむかって進軍を開始した。この城壁にかこまれた町、興国は、東固のゲリラ基地の南方、約25ないし30マイルのところにある山のなかの町である。興国と東固は、ひとつの強力な革命基地に統一され、紅軍の学校や病院、兵器工場、その他の施設に安全な場所を提供することになった。

 

 毛沢東がこの使命のために出発してから1週間後に、朱徳も汀州を出発し、江西省の南部一帯にわたって旋風のような行動を開始した。だが彼は、出かける前に、いくつかの部隊を選抜し展開して、汀州と瑞金地区に残し、パルチザン部隊の組織と訓練をいっそう拡大できるようにしておいた。東固山地の東方数マイルにある城市で、かつて一度紅軍が占領したことがある寧都の町こそ、朱徳の作戦の最終目的地であった。

 

 多くの場合朱将軍は、このような作戦については、軍事的立場から事細かく説明した。ひとつひとつの戦闘について、鹵獲(ろかく)した兵器の数や型、ぶんどった敵の補給品の種類や量など、単調な報告をくりかえしながら、長期にわたる苦難にみちた革命の成長の姿を、描きあげていった。朱徳は、しばしばいわれているように、「紅軍の父」として、精根をからすようなたくさんの闘争と、忍耐強い訓練の成果の生きた化身であった。

 

 しかし、いくら軍事問題を強調したといっても、同時に彼は、つねに人の意表に出る人でもあった。素直な態度や素朴な容貌こそ、まさに曲者なのである。彼が作戦についてかたるとき、つぎつぎに、終わることもない戦闘また戦闘について、ほとんど戦闘の名だけしかあげないことがしばしばあった。そうかと思うと、まるで社会学者のように民衆の恐ろしい運命について回想し、手にとるように生き生きと描きだしてみせたり、また、木々におおわれた山々と、雲につつまれた暗い絶壁の壮大な美しさについて語ったり、この地方の山や野花を彼の郷里四川のものと比べたりもした。朱徳の思い出には、いつも民衆音楽に対する深い関心と愛着が絶えずあらわれていたので、彼の話をきくものは、もし彼が他の時代に生まれていたならば、いったい何になっただろうかと考えこまされたりもした。