Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

寧都占領と悲惨な囚人たちを釈放 『偉大なる道』第7巻①ー15

 数週間にわたって、東奔西走し、南北に敵を粉砕しながら、ついに朱徳は、堅固な城壁をめぐらした寧都の町にむかって北進した。彼は、かつて一発の弾丸もうたずに、この町を占領したことがあったが、今度は、国民党の将校レイ・シー・ニン大佐が、完全装備の一個連隊をもって守備していた。レイ大佐は石城県一円に君臨する大地主、軍閥一族のひとりであり、この一族の家長として蒋介石軍の将軍にもなっていた。農民の話によると、レイ大佐は30人の妾をかかえた後宮をもっていて、「紅匪の頭目」朱毛の首を寧都の城壁にぶらさげてみせると、大言壮語していた。

 

 寧都の堅固な城壁を完全に爆破することができなかったので、紅軍は、これを包囲した。ついで紅軍は、農民が持ってきた竹のはしごをかけて、城壁によじのぼり、突撃を敢行して、これを占領した。数百人の紅軍兵士と多くの農民が、この戦闘でたおれた。しかし、町は、その全守備隊もろとも、完全に紅軍の手中におちた。


 この当時は、軍事と政治工作とのあいだに、明確な一線が引かれていなかったので、だれもができる仕事は何でもやった。朱徳の名は、寧都ソビエトの一員として、人びとの前にあらわれ、遠い村々の農民までが、朱徳を農民組合の委員長に推薦した。朱徳は、もはや一個人でも一人格でもなくなり、象徴となり、紅軍と同じようなものになった。紅軍の兵士たちもしばしば個人の名前でよばれなくなり、農民たちは彼らをたんに「蘇維埃先生」すなわち、ソビエトさんとよんでいた。

 

 「どこへいっても」と朱将軍はいった。「われわれは、いつでも、監獄の門をひらき、犯罪理由の如何にかかわらず、囚人を釈放した。犯罪は、階級問題であり、本当の犯罪者は、決してこれらの囚人のなかにはいない。それどころか、囚人は、いつでも貧乏人であり、借金や税金が払えなかったり、あるいは、私有財産にたいするささいな犯罪を理由で投獄されていた。われわれは、農民組織や、労働者の組織あるいは共産党に属しているのではないかという嫌疑をかけられた囚人を、すくなくとも数人かならず発見した。けれども、こういう人たちはたいていもう死んでしまうか、殺されるかしていた。生き残っていたものも足かせをはめられて、その鎖のために足の皮膚が破れて、まったく歩けなくなっていたものが多かった。みな、しらみだらけで髪はのび放題にのびて、ぼうぼうとしており、多くのものが、結核か心臓病にかかっているか、赤痢か腸チフスで死にかかっているかだった。食糧は家族が差し入れしなければならなかったのだが、その食糧さへ、看守たちは囚人にあたえなかった。監獄の当局者たちはこの食糧の大部分を横領していたので、囚人たちはまるで骸骨のようになっていた」