Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

戦没者大慰霊祭での朱徳の演説 『偉大なる道』第7巻①ー18

 寧都の勝利は、一時的なものにすぎなかった。この町の占領して2週間後には、紅軍はふたたび行軍を開始した。北方から三個師団の敵軍が血に飢えた目つきをして、圧迫を加えてきた。紅軍はまず、寧都のソビエトと多くの人民組織が山地の村々へ撤退するのを援助し、それから、敵軍二個師団に追跡されながら、汀州の基地に向かって出発した。しかし、汀州にも、海岸方面と南方広東省との2方面からの、別の敵軍数個師団が進撃してきて、おびやかしていた。

 

 包囲体制にある敵軍のうち、最も弱体な一環をえらんで――この場合、それは、海岸方面から進撃してきた福建軍であった――、紅軍をひきいた朱徳毛沢東は、汀州を素通りして、城壁をめぐらした町、竜岩に、電撃的攻撃をくわえて、ここを占領した。この町は、福建軍の補給基地だったので、紅軍は、あらゆる種類の軍需品と1万ポンドにのぼるアヘンを鹵獲(ろかく)した。

 

 竜岩では、紅軍の戦没者大慰霊祭がもよおされ、朱徳毛沢東のふたりも演説した。この地方一帯から、一般の人たちが大群衆となって参列したが、この人たちは、戦死した兵士が名誉を受けるなどということは、いまだかつてきいたことがなかった。慰霊祭のあいだじゅう、かぶり火として、うばい取ったアヘンが燃やされたが、これに火をつける儀式は朱徳があたった。将来、中国が解放された場合には、――と、毛沢東は、大群衆にむかって約束した――、兵士であろうと市民であろうと、革命の途上でたおれたものはみな、大いなる名誉をうけ、遺族は年金をうけとり、遺児たちは国費で教育を受けるようになるだろう。

 

 朱将軍が、そののち数年間に、おそらく1千回はくり返した議論をはじめて展開したのも、この慰霊祭でのことだった。太平の反乱からはじまって、1911年の革命(辛亥革命)、1915年の革命(雲南護国軍を主力とする袁世凱打倒の運動)、さらに1925―27年の革命(大革命)にいたる、中国の革命闘争の歴史を回顧して、朱徳はこう論じた――中国の人民は、自分が、偉大にして神聖な革命的伝統の継承者であるという事実を、けっして忘れてはならない。この革命的伝統は、いまや、植民地諸国の人民の解放闘争、全世界の抑圧されたものの解放闘争の一環となっている、と。

 

 このときから数年たってから、筆者は、同じような集会で朱将軍が演説するのを、たびたびきいたことがあるが、演説の仕方はいつも同じだった。彼は、とくに上手な演説家ではない。声は、野外の聴衆にむかって話すには小さいし、また彼には、演出効果をねらうとか、美辞麗句をつらねるというようなことはまったくなかった。演説するというよりは、学校の先生のようは話し方であった。事実、先生みたいにときどき話をやめて、聴衆に「わかりますか?」と、たずねる。そして、もし聴衆がわからないと答えると、彼はことばをかえてみたり、もっとわかりやすいことばをつかったり、苦心惨憺して、もう一度説明しなおした。