Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

毛沢東マラリヤにかかり重態 『偉大なる道』第7巻①ー20

 その年の9月1日には、朱徳は福建西部のソビエト区に帰ってきていた。この地区から福建省軍はすでに退散していて、広東から北上した敵の諸部隊は毛沢東の絶え間ない攻撃に、疲労困憊(こんぱい)して撤退していた。しかし、こんどは毛沢東マラリヤにかかって重態におちいった。そのときはちょうどマラリヤが猛威をふるい、戦争よりも大きい犠牲者を出した年であった。奥地の商人がべら棒に高い値段で売っていたキニーネの錠剤は、大部分が重炭酸ソーダで、キニーネはわずかな苦味をつけるだけで、ほんの少ししか入っていなかった。

 

 紅軍の医療隊は最良のものでも、まだきわめて原始的な組織にすぎなかったが、その隊員の一人に命じて、敵の戦線を突破しキニーネを買いに上海へ行かせた。彼は無事に使命をはたして帰ってきたので、もう一度行かされた。しかし、今度はとうとう帰ってこなかった。途中でつかまって、首を切られてしまった。それで、もはやこれ以上、人命をおろそかにしないことになった。

 

 しかし、毛沢東はともかく辛うじて命びろいをした。そして、ネルソン・フー博士は毛沢東がまだ生と死のあいだをさまよっている山の上の村へ、定期的に診察にのぼってきた。フー博士は汀州の英国バプティスト伝道団出身のクリスチャンで、紅軍に加わり、医療隊の隊長になっていた。

 

 朱徳は依然として紅軍を指揮して奮戦し、敵の諸部隊を汀州の城壁のなかに閉じこめておき、そのあいだに、それまでの数週間に失った多くのほかの町を攻撃してそこを占領した。マラリヤでさえ彼には一度もとりつく機会がなかったようだが、どうしてなのかは、もちろん彼にもわからなかった。彼は43回の夏をすごしてきて、数えきれないほど死の門に入ったり出たりしてきたのだが、彼は病苦とはどんなものか知らなかった。

 

 「マラリヤの蚊でさえ、朱将軍には歯がたたなかったというのは、いったいどういうわけですか?」と、私はかつてネルソン・フー博士にきいてみたことがある。博士はあっけにとられて、首をふりながらこう答えた。

 

 「だれもわかりませんよ。あの人は生まれつき、ものすごく頑強にできているんですよ。おぼえてますが、彼は本綿の布を1枚もっていて、夜寝るときは、それをかぶるだけです。蚊帳なんかぜんぜんもっていません。私はときどき彼に会ったのですが、ちょっと話をするひまがあると、私がどうしてクリスチャンになったのか、基督教とはどういうものなのか、ということをさかんに知りたがっていた。あの人は何でも興味をもっています。私の好みからいうと、彼はすこし荒削りですが、彼のユーモアのセンスは農民や兵士たちに大うけですよ。そして、いつでも、楽観的でした。もちろん、このことが彼がマラリヤにかからなかった理由の説明にはなりませんがね!」