Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

古参兵たちと再会そして毛沢東と連絡 『偉大なる道』第7巻②ー6

 その付近には6百人のパルチザンがいた。そのうち2百人近くは、1年ばかり前、朱徳毛沢東にしたがって井岡山の封鎖を突破した紅軍の古参兵だった。彼らは一年前のきびしい冬、この山岳地帯一帯で紅軍が死にものぐるいの戦闘をつづけていた当時、病気にかかったり、負傷したりしたため、回復するまで農民のもとにのこされた人たちだった。当時、この連中はそれぞれ小銃と数発の弾丸をあたえられ、全快したときには、農民のパルチザン戦争を組織し指導するようにいいわたされていた。


 生きのこったものは、みな命令通りに行動した。彼らはたがいに連絡をとりながら、小さな連隊を組織した。この連隊は、親にあたる紅軍を模範とし、各分隊の政治工作員にいたるまでそっくりそのまま組織されていた。紅軍に帰隊した彼らは、そこで、朱徳らを安全なパルチザン地帯に案内した。朱将軍は、ここで休養することができ、福建にいる毛沢東へ使者を送った。

 

 使者は、つぎのような報告をもって帰ってきた。――朱徳がいなくなってから、上杭はじめ全城市が強力な敵軍に占領された。しかし、農村は依然として人民の手中にある。毛沢東は、福建省の山地の安全なソビエト区、古田に撤退した。そして、この古田で、長いあいだ計画されてきた第九回紅軍代表者大会をきたる1930年1月1日にひらくことになった。それはわずか2週間後にせまっていた。朱徳の指揮下の各中隊は、大会への代表を選出することになった。

 

 古田への道を戦いつづけながら、朱徳は上杭をもう一度占領しようとこころみた。これは失敗したが、汀州では敵軍を数日間追っぱらうことができた。しかし、すぐに敵の増援部隊が到着したので、結局放棄せざるをえなくなった。朱徳は元旦の朝早く古田に到着した。村人たちは、朱徳と彼の部隊がまるで大勝利をおさめて凱旋してきたように歓迎した。

 

 「その年は豊作だった」と朱徳は話題をかえて話しだした。「地主を追いだして、その土地を分配してから、人民は自分たちも十分に食べ、そのあまりを紅軍に提供できるようになった。彼らは数千人の群になって、古田地区へあつまってきた。みな、それぞれ自分の布団と一週間分の食糧をもち、どの集団もわれわれへのおくりものをもってきた。大量の米をもち、鶏やあひるをかかえ、豚や牛までおいながらやってきたので、われわれは正月用の肉を十分に食べることができた。

 

 「わが軍と人民はいっしょに料理し、いっしょに食べた。夜になると、通りは、太鼓やドラや破裂する爆竹の音や歌声でわきかえるようだった。彩色した数千のちょうちんの光りに照らされて、紙でつくった竜がおどりまわった。私は新しい歌をつくったが、パルチザンたちがそれをうたいながら行進した。その歌はこうだ――

 

  「お前も貧乏、おれも貧乏、

  十人ならば、九人は貧乏。

  この九人が腕をくんだら、

  虎地主なんて、ふっとんでしまうぞ」