Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

旧雲南軍の内部からの崩壊 『偉大なる道』第7巻②ー9

 1930年の1月から3月まで、朱徳は紅軍主力の司令官として、旧雲南軍に対して迅速にして激烈をきわめた作戦をみずから指導した。この雲南軍は、かつて彼が旅団長をしていたことがあるのだが、いまは蒋介石の命令で「紅匪」を撃破し根絶するために江西省へひきかえしてきていた。6月までに、この雲南軍の諸部隊はめちゃくちゃに粉砕され、すっかり不満をいだいて離反してしまったので、蒋介石は彼らを新しい部隊と交代しなければならなくなった。

 

 雲南軍の崩壊のしかたは、朱将軍をとてもよろこばせた。彼の語りによると、雲南軍の諸部隊は、上官の命令をサボタージュしただけでなく、農民を使いにして朱徳のもとへ定期的に報告を送ってきたのであった。その上、かなりたくさんの兵士が、農民に1ドルか2ドルをはらって、一番近くにいる紅軍の部隊へ案内されてやってきた。

 

 作戦を開始した1月のはじめ、雲南軍の「掃匪司令」羅炳輝大佐は、一個連隊の部下をひきいて紅軍に加わり、13年後ついにたおれるまで紅軍の陣営でたたかった。

 

 この特別な作戦のあいだ、やはり諸部隊を指揮していた毛沢東は、ただちに、あらたに解放された地域の再組織と再建にとりかかった。朱将軍は、できるだけ多くの若い農民を召集し、組織するまでは、ほんの少しの時間も惜しんでじっとしていなかった。

 

 いつものように、多くの市や町や村々に人民代表会議(ソビエト)をつくりあげたのち、すべての古い税金が廃棄された、と朱将軍は当時を回想しながらいった。そのかわり、穀物の収穫に対する、単一の累進税をとりいれた。紅軍が、自分たちの補給を敵からの鹵獲(ろかく)品でまかなうようになってからは、税金収入はすべて再建にあてるようになった。高利貸しとアヘンは厳禁され、抵当証券と借金証文は返済され、小学校と各種の合作社がつくられ、最初の小さな農民銀行が設立された。