Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

軍事問題に没頭する多忙な朱徳 『偉大なる道』第7巻②ー12

 この再建の期間、朱将軍は主として軍事問題に没頭していた。彼はいたるところにたむろしている敵の部隊や、「紅匪掃滅」活動の功績で、蒋介石から栄誉と償金をもらおうと考えている臨時雇いの連隊を片付けてゆかねばならなかった。こういう連隊が南京にどんな報告を送っているのかは、もちろん朱将軍も知るよしはなかったのだが、だいたい、事実とはまったく違うでたらめらしいということだけは確信していた。この種のある連隊が、南の方の広東省のある市からじつに勇敢に進撃してきたことがある。朱徳は彼らを山間に待ち伏せし、彼の部隊はまるで地すべりのように敵軍に襲いかかった。紅軍は、敵の敗残部隊を敵が基地にしている都市の向こう側まで徹底的に追跡した。その帰りがけに、敵の補給中継地のいたるところで、すべての補給物資を捕獲していった。そのとき以来、朱徳のふしぎな作戦の評判は大変なものになり、瑞金――将来のソビエト首都――にいた敵軍一個旅団全部が、朱徳軍の接近の報を耳に入れるや、たちまち反乱を起こして逃げてしまったほどであった。しかも、このときの逃げ足の速さたるや、名に負う朱徳軍の迅速部隊でさえ、つかまえることができなかったほどであった。

 

 こうした仕事で数ヵ月間多忙をきわめていたので、妻にも全然会うことができなかったが、妻はどこか遠くで、あたらしい婦人連合会を組織する仕事についている、と彼はいった。この偶然のきっかけから、話が彼の4番目の妻である康克清の話におよんだ。彼女は農民の娘で、1928年の末に朱徳と結婚した。それは、朱徳の3番目の妻で婦人作家だった呉玉蘭が国民党軍にとらわれ、首を切られてから、9ヵ月か10ヵ月たってからのことであった。

 

 康克清は当時10代のおわりにちかい農民の娘で、頑強な身体をしていて、朱徳軍が農村一帯をかけまわっていたとき、農民たちといっしょに戦闘に加わるまでは、地主の畑で農業労働者として働いていた。朱徳がはじめて出会ったときには、彼女はまだ文盲だったが、1937年には、紅軍の軍事指導者と政治指導者を訓練するため延安に設立された「抗大」すなわち、抗日軍政大学の学生になっていた。ほかの婦人の学生と同様、彼女もこの数年間軍服を着ていて、いまは「抗大」の婦人学生宿舎に住んでいる。そして1週間に1日の休日だけ、自由に夫や友だちをたずねていた。