Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

長沙からの撤退 『偉大なる道』第7巻③ー6

 1930年7月29日、炎熱にうだるような夏の日だった。朱徳毛沢東は、江西省の北端にある南昌の周辺にはりめぐらされた強力な防衛陣地の近くに達し、はるか遠方からこの強力な防御陣地を観察した。ちょうどこの日、彭徳懐の第三軍団が、次から次へとつづく農民の群れと長沙市内の労働者やインテリの支持をうけて、湖南省の首都長沙を占領し、湖南、江西、湖北3省のソビエト政府の設立を宣言し、不在主席として李立三をおしたという知らせが、中国じゅうにぱっとひろがった。

 

 朱毛軍による南昌への脅威と長沙の占領という事態に直面して、外国帝国主義諸国は国民党を援助するために戦場に直接のりだしてきた。

 

 アメリカ、イギリス、イタリア、日本の砲艦は、長沙から全外国人の引き揚げをすでに終わっていたのだが、紅軍占領のあくる日、7月30日にはふたたび長沙に引き返してきた。湘江に停泊したこれらの外国砲艦は、長沙の市街に向かって4日間ぶっつづけの砲撃を開始した。その結果、市内には大火災がおこり、数千人の兵士と市民が殺された。この砲撃を指揮したのはアメリカの砲艦パロス号だった。紅軍の長沙進撃にさいしていちはやく逃げだしていた地方軍閥何鍵は、この外国軍の弾幕のかげにかくれて上陸してきた。

 

 8月3日の夕刻、紅軍の諸部隊と紅軍を支持している全市民組織は、長沙からの撤退を開始した。彼らは、反革命勢力から没収した印刷機械、新聞用紙、米、現金そのほかの資材をもっていった。長沙から東へ向かって江西省北西部の鉱山地帯へのびている支線の鉄道労働者は、その夜1台の機関車と3台の車輌を運転して、何回も何回ものろのろと往復し、まず負傷者を撤退させ、ついで没収した物資をはこび出した。

 

 8月4日、軍閥何鍵はついに長沙を奪回した。1週間にわたって、彼は数千の市民の大虐殺をおこなったので、商人や産業資本家までが何鍵のことを「罪のない人民を虐殺することしか知らない屠殺者」だ、と非難する宣言を出したほどであった。