Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

吉安陥落 『偉大なる道』第7巻③ー9

 吉安は、1930年10月4日の真夜中に陥落した。その間、毛は軍務をはなれて、行政面の仕事を担当し、吉安ソビエトの組織を指導した。また朱は、あらたに紅軍に加わった1万人におよぶ農民や労働者の義勇兵の問題を処理するため、城外に出ていった。吉安の市街全体が、あふれるばかりの農民の大群衆と化した。農民たちは、夜になると、路上で立て膝のままで眠る有様だった。朱将軍のいい方によると、「見物をすませ、大衆集会に出席してから、農民たちは、裁判にかけるために、地主どもを連れて、列をなして村々に帰って行った」吉安が紅軍の手におちてから2週間のあいだに、たっぷり百万人にのぼる農民が、そこに出入りした。

 

 朱将軍が、とくに吉安のことをよくおぼえているわけは、ここにあった敵軍司令部から重要な書類を発見したからであった。これらの文書の一部は、第一次「掃共戦」計画に関するものだった。蒋介石は、華北での戦争をすでに中止し、紅軍を攻撃するために、十万の国民党軍を江西に向けて移動させていた。戦争は、10月の末に開始されることになっていた。

 

 捕獲した文書のもうひとつの部類は、いわゆる「反ボルシェヴィキ団」すなわち「AB団」に関するものだった。これは、国民党秘密警察の暗殺スパイ組織で、ソビエト区全域にわたって、サボタージュとテロの網をはりめぐらしていた。文書に目を通した朱将軍は、不吉な予感におそわれた。というのは、ソビエト区に潜入しているAB団員の名前が、暗号で書かれていたのだが、共産党側は、数ヵ月もこの暗号を解読することができなかったからである。しかし敵の側にも重大な不注意があった。東固―興国ソビエト区のある地主がおおっぴらに署名した現金領収書のような、重要な手がかりが見つかった。名前を李文林という、この地区の主たる共産党指導者の一人は、まさにその地主の息子だった。朱将軍は、李文林がAB団と連絡しているということを、どうしても信じることができなかったが、ともかく、現に彼の父が署名した文書がみつかった。