Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

吉安撤退計画 『偉大なる道』第8巻①ー2

 10月中旬、朱徳毛沢東と同志たちは、吉安北方の彭徳懐の司令部で軍事会議をひらいた。そこで、吉安を撤退することを決定した。というのは、2倍もの数の敵にたいして、その市を死守するための犠牲に耐えられない、と判断したためであった。彼らが、軍の主力4万人をひきいて撤収して、すでに強化されているソビエト地区に入れば、そこですべての人民からゆるぎない支持を得るだろう。その東固山基地と広昌の城市の中間の地域において――朱将軍の言葉を借りると、「自己の好む戦場をえらび、迅速な集中と散開によって、われわれをせん滅するために送られてきた敵師団の中の、まずひとつを、つぎにひとつをと、包囲し攻撃することができるだろう」

 

 その後4ヵ月にわたってつづいた戦闘のうちで、とくにひとつを朱将軍は抜き出して、紅軍の戦いぶりの例証とした。この戦闘は、毛沢東がのちに『中国革命の戦略問題』という軍事教科書を書いたときに、彼の脳裏にあったものと同じにちがいない。

 

 「戦史では、ひとつの敗戦が、それまでのすべての勝利の収穫を無とする場合や、また、多くの敗戦のあとのひとつの戦闘の勝利が、新しい情勢を打開する場合が多い」

 

 この一戦闘は――それは、国民党軍の戦争計画すべてを崩壊させてしまったものだったが――1930年の12月末日に張輝サン将軍がひきいる第十八師団とのあいだで戦われたものだった。張将軍は、ほかに第二十八師団、第五十師団をもち、その3つの師団は国民党軍の中堅になっていた。すべて欠員のない正規師団で、外国製の武器で完全に装備され、給与も最高だった。