Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

紅軍内部の反逆行為 『偉大なる道』第8巻①ー3

 この決戦の話をする前に、朱将軍は、寄り道をして、紅軍内部での反逆行為のことを話したが、それは、もう少しのことで、形勢を一変して敵に利するものになっただろう。何週も続く戦闘の最中に、ある地主の息子のリュウ・チ・ツァオというものが、東固の農民からなる第二十紅軍をひきいて反乱を起こした。10月に吉安で入手した反ボルシェヴィキ(AB)団の書類によれば、少なくとも、東固の一人の地主の家族のものが、国民党の秘密情報機関と連絡している、ということはわかっていたのだが、しかもリュウは、吉安の近くの富田地域の防衛の任をあたえられていた。

 

 リュウ・チ・ツァオと東固と興国地方の政治指導者李文林――その家はAB団と連絡しあっていることがわかっていた――は、朱徳毛沢東が戦っていた李立三主義の、もっとも忠実な信奉者であった。いったい、いつ、どこで、李立三主義とAB団とのあいだにつながりができたのか、また、いったい、どうして、いつ、こうした指導者たちが、李立三主義からAB団にすべりこんでいったのか、そういうことは、朱徳と同志たちは、ずっと後になって知った。とにかく、こうした複雑怪奇なことは別にしておいて、朱将軍は、共産党が一掃しなかった東固の地主階級こそが、第二十紅軍の反乱の真の原因だと信じている。

 

 もちろん、リュウや李文林は、腹の底で考えていることを、農民兵たちに明かす勇気はなかった。だから彼らは、朱徳を「第二の蒋介石」、毛沢東のことを共産党を裏切る「党皇帝」とののしった。彼らの雄弁は目的を達し、反乱はおこり、富田地方で、多くの共産党指導者が殺された。それから彼らは、吉安地方の国民党の勢力地域に逃げてゆき、そこで一派で小さな共産党をつくって、わけのわからない宣言をつぎつぎに出した。そのひとつを見れば、朱徳は急に高潔な人物とほめたてられ、毛沢東は反逆者の烙印をおされていて、もうひとつを見れば、毛がほめられて朱が非難されていた。