Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

蒋介石による報復と新しいテロ 『偉大なる道』第8巻①ー8

 何週間かすぎたころ、上海の共産党中央委員会から一人の使者が、朱将軍の司令部に来た。持参した手紙によると、蒋介石が張将軍の釈放を請い、その代償として多数の政治犯を釈放し、20万ドルを払うといっていた。

 

 「処刑したことを、われわれは後悔した」と朱将軍はいった。「金のためではなかった。蒋介石は、復讐として、獄中のわれわれの同志の多くのものを殺したからだ」

 

 紅軍の勝利は、たしかに、国民党と、それを支持する外国筋と、財政援助者をがくぜんとさせ、そのため新しいテロの波が国民党支配下の中国に広がっていった。蒋介石元帥は、みずから南京政府の教育部長になり、宣言を発表して、彼の「心をいためる」ものは、学生たちが、「共産主義の食いものにされて」集会をしたり、ビラをまいたり、はなはだしきにいたっては、「政府への反抗に等しい行為――すなわち彼らの大学の学長に反抗する」のを見ることだ、といった。そして元帥は、「学生といえども、容赦なく射殺する」と声明し、かつその実証を見せはじめた。

 

 5つの大学が閉じられ、多数の学生が、秘密裏に上海で捕らえられ、その後の消息はまったくわからなかった。上海の新聞は、あっさりと、北京国立大学の60名、天津で10余名、そのほか広東、長沙、漢口で多数がとらえられたと報道した。1931年2月7日には、上海のイギリス警察は、若い作家、美術家、俳優など24名をとらえて、国民党の守備隊長に引きわたし、そこで彼らはその夜射殺され、自分たちが掘らされた大きな穴の中に捨てられた。

 

 南昌の国民党が発行する『反共月刊』の1931年2月号は、ひとりの国民党高官の談話をのせている。

 

 「もし政府が、紅匪問題の解決に、今日用いつつある方法以上のものを見出せないなら、われわれは、すべての紅匪地区をまず隔離し、毒ガスをつかって一人のこらず殺すほかないだろう。これらの地区の、10歳以上60歳までのあらゆる男と女は、紅軍のためにはたらくスパイであるか、紅軍兵そのものだからだ」