Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

1931年の朱徳のある一日 『偉大なる道』第8巻②ー1

 そのつぎに朱将軍が、生涯の話を語りにきたときに、私は提案して、1931年の典型的な一日をえらんで、その日の朝から晩まで何をしたか、話してくださいといった。

 

 しばらく考えてから、彼は答えた――ある一日にしたことすべてを思い出すことなんて無理だが、できるだけやってみよう。以下が、彼が語ったことである。

 

 「私は生涯、かなり早起きする習慣をつづけてきた。寝るのは仕事がおわってからなので、かなりおそく、ほとんどいつも夜中すぎになる。私の生活は、仕事と学習による鍛錬、ということを中心にして築かれてきたのだが、仕事と学習は、決して規則的なものではなかった。というのは、われわれが行なってきたような戦争では、司令部が直接手を出して監督しなければならないことが、じつに多かったからだ。

 

 「たいていは、――といっても規則正しいものではないが、部隊のものに軍事についての講義をし、ひんぱんに近くの部隊を視察して、統制と行動をしらべた。また私は、定期の参謀会議に出席したが、そのほかにも、週に1,2回は党の集会、それから司令部細胞の会合もあった。たびたび、軍の各部面の統率者との会議があり、さらに臨時に問題がおこったさいの会議もあった。一つの戦闘の前には、戦闘部隊の動員会議が1,2回ひらかれ、そこでは、軍の指揮官が、わが軍の作戦と敵側の情勢について報告し、政治指導員は、戦闘または作戦の意義、それから、戦いつつ敵の士気を沮喪させ、あるいは帰投させる、政治技術について説明した。

 

 「戦闘ののちには、時間があればだったが、――作戦ののちには必ず、会議を2回ひらいた。1回は指揮官だけのもの、もう1回は指揮官と兵士と合同のもので、そこでは戦闘または作戦の分析をおこなった。それは、わが軍にとっては、戦術的にも教育的にも、大きな価値のあるものだったので、私はそういう会議にはつとめて出席した。そうした合同の会議では、兵士も指揮官も、完全な言葉の自由をもっていた。たがいに批判することが認められ、根本計画の各部分や、実施された方法について批判してもかまわない。このような方法で、われわれは過失をただし、弱腰の指揮者を排除し、能力があるものを昇進させることができた。そして、われわれは、すべての封建的な悪習を根絶やしにし、軍隊を民主化し、兵士のあいだに自発的な軍規が生まれることをねらった。臆病だったり判断をあやまったりした兵士、戦闘の最中に命令にそむいた兵士は、その行動を公に語って、その過失をただすことを学ばなければならなかった。兵士をののしったり殴ったり、その他軍規をおかした指揮官は、大衆裁判の前に立って答えなければならず、もし有罪と決まれば、司令部によって処置されるだろう。こうした会議の結果は、パンフレットで発表されて全軍の研究の資料として用いられた」