Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

深刻な食糧危機 『偉大なる道』第8巻②ー3

 「第1回の敵の作戦を撃破したのちに」と朱将軍はつづけた。「われわれの軍は広い地域に拡散した。彭徳懐は北方の前線を占拠していたが、そこには新しく2つの県が加えられていた。彭は、城市南豊から許克祥将軍を追っぱらったが、その許は、『農民殺し』とよばれ、蒋介石がわれわれに国民党による第二次掃滅作戦をしかけてくる時まではと、しがみついていた。

 

 「その戦いの準備のために、われわれは軍を拡充し、多くの要衝の地点に軍需品の蓄積をして兵士の訓練にはげんだ。敵の飛行機は定期的にわが軍を爆撃し、反ボルシェヴィキ(AB)団はいたるところで活動を強化していた。その活動に抵抗するために、時にはわれわれは徹夜で会議しなければならなかった。

 

 「爆撃や食糧不足のためにわれわれ司令部は、4ヵ月の間に4,5回も移動した。春の種まきの時期だったので、深刻な食糧危機にさらされ、われわれの地域は狭く、われわれの蓄えは少なく、しかもわれわれは、まじかに迫り来る敵の攻撃にそなえて、米をたくわえなければならなかった。わが軍は地主らから米を取りあげたが、それにも限りがあって、われわれは、農民を手伝って、土地を耕したり種をまいたりしたどころか、兵士たちは、貧弱な荒野の開拓すらもしたのだが、それも貧寒な土地だった。

 

 わが軍は、各師団ごとに、兵士の委員会という特殊な組織をもっていて、そこが、給与の処理をし、軍規を保持し、教育と娯楽の活動の指示をしていた。1931年の春のあいだは、こうした委員会は、食糧をたくわえるという仕事に、労力をそそいでいた。そして、われわれの配給までけずったので、われわれは、一日に2回、――10時と4時に、まずしいものを食うだけだった。食糧はお粗末なもので、われわれは、はじめから終わりまで腹ペコだった。病気の兵士と負傷兵だけは十分にあてがわれた。