Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

全中国ソビエト大会の準備 『偉大なる道』第8巻②ー5

 「1931年の3月はじめに、われわれは、上海で秘密にひらかれた党の第4回代表者会議で通過した決議を受けとった。われわれもその会議に代表をおくった。そしてその会議で李立三の方針が否決され、われわれの方針が確認された。その時にわれわれが受けとった決議は、軍隊に体系的な教育をほどこすこと、軍とソビエトと民衆の諸組織との仕事の区分を明らかにすることを指令していた。会議はまた、1931年8月1日――南昌蜂起の4周年記念を期して、江西南部でひらかれる全中国ソビエト大会のための準備をすることをわれわれに要請した。

 

 「われわれは決議の実践に取りかかった。まずすべてのソビエト地区からの党代表の会議を召集し、それからふたたび司令部を、――今度はシャンタンという小さな山村にうつしたが、そこにはある豪家の祠堂があって、司令部と会議の代議員を収容するだけの広さをもっていた。

 

 「会議はほとんど1ヵ月つづいた。とくに8月1日の全中国ソビエト大会のための準備委員会を設定した。しかし、まもなく敵の新作戦がはじまって、会議は、まず11月7日まで、それからまた12月11日まで延期された。12月11日は、広東コミューンの記念日だった。

 

 「シャンタンの会議には、私は常任幹部会のひとりとして、時には議長として出席したが、その会議によって、われわれの仕事は強化されていった。そのとき以来、ソビエトと民衆の組織は、軍から独立することになった。

 

 ソビエト内の個人的関係は――ある場合には大きな影響を持ってきたのだが――一掃され、すべてのソビエトすなわち評議会は、能率的な行政機関として、財政、土地、通信、地方武装隊、衛生、教育、生産、それから婦女子問題などを取りあつかった。ソビエトは、村を基底とし、それから区、それから省と、ピラミッド型に組織された。1931年の12月11日以後は、最高機関は、瑞金の中央ソビエト政府であり、首席は毛沢東だった。