Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

文盲退治、無電学校設立 『偉大なる道』第8巻②ー6

 「われわれはまた、軍隊のために軍事と政治の定時講義をし、文盲退治の運動をいっそう強化した。外部から多くの知識階級出身者が入ってきて、われわれを助けた。しかし、まだその数は足りず、われわれの軍医部隊は貧弱であった。上海から印刷工、そのほか多くの都市から産業労働者が、敵の戦線をくぐって、われわれのところにきた。

 

 「私はまた、新しい無電学校にも力を入れたが、それは第十八師団の無電機を捕獲したときに設立されたものだった。主任の王ソウは、われわれに加盟するやいなや、新無電学校を組織した。王は、いまもこの延安の無電学校長で、『無電の父』とよばれている。

 

 「同志になると、王は敵の通信を傍受しはじめたが、それによると、公秉藩将軍の第二十八師団は新式の無電装備をもっていることがわかった。こちらの無電学校の生徒は、大いにそれを欲しがったが、私もそれに大賛成だった。また、敵の通信を傍受すると、敵はかねて、第二次掃滅作戦のために堡砦(ほうさい)を構築しつつあったが、それらの後方には軍需品や糧食が集積されている、ということも知った。そうした堡砦(ほうさい)については、われわれは完全に知っていた、というのは国民党は農民を徴発して築かせたからだ。

 

 「4月のころには、われわれの糧食弾薬の問題は危機にせまってきたが、第二次の作戦のための蓄えを消費してしまうことを恐れて、農民から返却の日を決めて米を借りることにした。農民たちは私に、期限をきったりして大丈夫か、ときくので、私は彼らに、今まで約束を破ったことはあるか、ときき返した。彼らは、いやそんなことはなかった、といってみな大いに笑った。というのは、農民はそれが何を意味するのかを知っていたからだ」――と、朱将軍は、誇らかにつけ加えた。

 

 朱将軍が語りおわったときは、真夜中すぎだった。彼は、蝋燭の灯かげに白い強健な歯をきらめかせ、あくびをし、笑いながらいった。「私の1931年の春の生活の、典型的な一日といえば、ざっとこうしたものだった」