Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

朱徳、第二次掃共戦を概括 『偉大なる道』第8巻③ー6

 建寧を奪取した紅軍は、一部の戦闘部隊を残しておいて、旋回して、敵の堡砦(ほうさい)線に沿って、道々その堡砦を破壊しながら、引き上げていった。その線の両側に、広汎な新地域を獲得したので、政治工作員は、それをソビエト地区に「固める」仕事にとりかかった。

 

 敵の堡砦をことごとく破壊したのち、紅軍はふたたび旋回して、南のソビエト区に入り、はるか南方の広東省からきていた十九路軍に向かって進撃した。この軍もまた退却の名人で、故郷の省に入るまでは、足をとめることはなかった。朱将軍の説明によれば、その退却は広東広西二省の将軍たちと蒋介石とのあいだの軋轢によるものだった。「掃共戦」がいまや紅軍によって笑い草にされたので、外国人と中国人の支配階級は、蒋介石を手きびしく批判するようになり、そこで南方の将軍たちは、中国内の外国勢力の代表者たちに売り込んで、蒋がしくじったことを仕上げることができるから、外国人の承認支持に値する、と信じさせようとしたのだ。

 

 朱将軍は、第二次掃共戦を、次のように概括した。

 

 「この戦いは20日間昼も夜もつづいた。その間、わが軍は3百マイル(480キロ)以上を行進し、昼も夜も戦い、豪雨がたたきつける地べたに、銃を枕にして寝た。こうして、われわれは白軍十三個師団を撃破し、少なくとも1万を殺し、2万以上のものの武装解除をした。鹵獲(ろかく)品は記憶できないぐらい莫大な量だった。およそ2万の小銃、その他の武器、金、毛布、医薬品、衣服、無電装置と発電機、双眼鏡、追撃砲、自動拳銃、手榴弾、大量の米、小麦粉、弾薬などをふくんでいた。捕虜の中には多くの軍医がいたので、わが軍の病院で働くことを命じたが、その中には後に党に入って、今日までわれわれと行動を共にしているものもいる。しかし、少数のものは、反ボルシェヴィキ(AB)団の網に引っかかってしまって、わが軍の負傷した指揮官を何人か殺した。われわれは彼らを射殺した」

 

 この戦は「何千の農民の家庭に悲惨をもたらした」と朱将軍はいった。農民が虐殺されただけでなく、正規の紅軍だけで4千の死傷者を出し、赤衛隊その他のパルチザン隊は甚大な損傷を受けた。しかし、死も惨害も、人民の革命の情熱を砕くことはできなかった。勝利ののちの大祝賀集会では、多くの感動的な光景が見られた。