Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

1934年9月、撤退する部隊と後に残る部隊 『偉大なる道』第9巻①ー2

 「1934年9月のはじめだった」と朱将軍はかたりはじめる。「長い準備のあとで、われわれは、政治軍事の主な幹部を瑞金に召集して撤退計画をはなした。ソビエト政府副首席の党中央委員頂英は、東部戦線からやってきていた。われわれは彼を党指導者、ならびに政治部主席として中央ソビエト地区にとどめて、闘争を継続するために後に残す部隊と政治委員全体を指揮させることにした。また興国戦線の部隊指揮官だった陳毅を、最高司令官として残留させることにした。陳の政治部主席の聶栄臻(じょうえいしん)はマラリヤにかかっていたが、つれていくことにした。

 「後に残した部隊は、周建平の指揮する第二十四師団の5千名、福建省紅軍の3千6百名、江西省紅軍の2千4百名、江南省紅軍の2千4百名、そして江西省北部の抗日前衛隊の1万5千名だった。

 

 「われわれはまた、軍事、政治、それに大衆組織の有能な指導者をたくさん残した。全国総工会の議長もそのひとりだが、彼は7ヵ月後に国民党につかまって、斬首(ざんしゅ)された。監察人民委員何叔衛と教育人民委員瞿秋白ものこした。何は60歳を越えていたし、瞿はひどい肺結核だったからだ。瞿秋白は文芸復興の指導者のひとりであり、孫逸仙の下での国民党中央委員会のメンバーだった。何と瞿はひそかに上海に送りこまれる手はずになっていた。彼らは8ヵ月後に国民党に捕えられ、何人かの女性指導者たちといっしょに竜岩で斬首された。

 

 「われわれは、山の中の病院にちらばった2万人ほどの傷病兵ものこした。彼らは、回復次第病院を出て任務にかえった。障害が残ったものには、金をわたして家に帰し、金50元の年金を与えた。この年金は、われわれの江西の同志の手元に金がなくなるまで支払われていた。

 

 「敵は、ソビエト地区の主な町を占領するために二十個師団全部を使った。彼らは、人民が武器をもつ農村を完全に征服することはできなかったが、何十万の人民を虐殺することには成功した。多数の婦女子が捕えられ、1人当たり5元で国民党の兵隊や将校、地主、妓楼主などに売りつけられた。「以前逃げた地主やならず者たちが、白軍といっしょに帰ってきて役職についた。だが、見つかると農民たちに撃たれるから部落には寄りつかなかった。白軍のソビエト地区占領は極めて慎重にかつ残酷なやり方でおこなわれたが、われわれが残した武装兵力は、決して根こそぎにされはしなかった」