Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

朱徳将軍による行軍序列発令 『偉大なる道』第9巻①ー4

 「われわれ後続部隊は、その日から翌日にかけて、ぞくぞく寛田に到着した。私は、朱徳将軍と周恩来が、総指令部の人たちといっしょに乗り込んでくるのを見た。毛沢東と中央委員会が、それに続いた。毛はやせて弱々しそうだった。

 

 「15日の日没、われわれは西南に向かって山路をたどりはじめた。行軍序列は朱徳将軍から発令された。第一隊は朱将軍司令部の参謀長葉剣英の指揮下にある、紅軍大学の連隊だった。総司令部、革命軍事委員会、党中央委員会がこれにつづいた。つぎにソビエト政府、党、共産青年同盟の要員と反帝同盟の一部がゆき、それにつづいて補給部、われわれの兵器廠部隊、印刷機械や材料をかついだ印刷担任者たち、政府造幣廠、医者や看護婦や、4人ずつでかつぐ百二十組の担架隊を引きつれた衛生部隊、ミシンをかついだ大勢の裁縫職人をつれた紅軍衣料廠、そのあとに各部の補給品をはこぶ長い隊列がつづいた。

 

 「第七軍団がわれわれの左側面の防衛にあたり、第九軍団が右側面の防衛にあたった。そして薫振堂の指揮する第五軍団が後衛部隊だった。

 

 「私は、中国労働運動の草分けのひとりである頂英が、朱徳毛沢東といっしょに寛田に来ていたことを覚えている。彼は小高い丘の上にたたずんで、われわれの出発をじっと見送っていたが、それから第二十四師団にもどっていった。その数週間後、彼の師団が瑞金の南の会昌で敵の旅団をやっつけたことを無電で朱徳に知らせてきたが、敵の力が圧倒的に強かったので、師団は大隊単位に分散して遊撃戦にうつった。