Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

民衆大会で教えた「打倒土豪」「分地」 『偉大なる道』第9巻①ー6

 「第一軍団と第三軍団は、しばしば敵の中を実力で突破して、都市を占領したり、村落を保護したりしたが、地主や軍国主義者の役人の財産を没収して、自分たちに必要な分の食糧をおさえると同時に、残りは貧農や都市の貧民に分配した。大きな塩蔵をおさえたときなど、われわれはみな、ポケットにいっぱい入れて砂糖のようになめた。医療関係の連中は、どこでもキニーネその他の薬品を探しまわったが、大した獲物はなかった。

 

 「われわれはまた、民衆を集めて大会をひらいた。そこで演劇部隊が芝居をやったり、歌ったりする一方、政治工作員はスローガンを書いたり、ソビエト憲法ソビエト政府基本法の写しをくばったりした。たとえ一晩でも1ヵ所にとどまる場合は、われわれは農民に少なくとも次の六文字の書き方を教えた――「打倒土豪」(封建的な郷紳と地主を倒せ)「分地」(土地を分けろ)だった。

 

 「優勢な敵軍が急にせまってきたような場合は、日中も行軍したが、そんなときは爆撃機に襲撃された。われわれは散らばって伏し、起きあがって歩き出し、また散らばって伏し、何時間もそれを続けた。

 

 「わが軍の死傷者が多かったので、医療関係者は過酷な困難に直面した。農民たちはいつも、われわれに援助を申し出て、傷病者や疲労困憊(こんぱい)したものを引き取ろうといってくれた。そこでそこに残してゆくものには、いくらかの金や小銃や弾薬をあたえ、回復次第農民を指導してパルチザン戦を展開するように指示した。ときには戦闘で1つか2つの中隊が主力から引き離されることがあったが、この場合も同様に、彼らは山の中にしりぞいてパルチザン地区をうち立てた。

 

 「朱将軍はたびたび全部隊を巡視して、みなを励ましたが、わが軍の士気はいつも変わらず高かった。朱将軍は心やさしい人だが、みかけは痩せぎすで頑強だった。彼は老けていて、顔には深いしわがあった。だが、病気をしたことがなく、悲観的な考えにおちいることもなかった」参考までにいうと、長征がはじまった当時、朱徳は48歳であった。