Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

遵義会議で権力をとった毛沢東 『偉大なる道』第9巻①ー9

 1935年1月はじめの遵義占領の頃までは、紅軍は、まだ少数の有力な中央委員に支持されていた外国人顧問李徳の助言によって作戦を立てていた。李徳はドイツ人で、ソビエト騎兵隊の出身、1933年に江西ソビエト地区にやってきて、それ以来3年間唯一の外国人顧問であった。ドイツ人顧問のついている国民党側の将軍の行動を事前に予想するには、彼は非常に役に立った。だが、1934年の国民党の第五次総攻撃のとき、彼は紅軍に陣地戦をすすめた。毛や朱や多くの軍司令官は、第五次総攻撃に対する戦術の失敗――その結果、ソビエト地区を失い、莫大な人命を犠牲にし、しかもついに江西省から撤退せざるを得なくなった――は李徳と彼の支持者の責任であるとした。

 

 十九路軍との統一戦線が失敗したのも、また、長征の初期に、敵にあうと恐怖のあまり逃げまわったのも、この一派の責任だった。

 

 毛や朱やその他の司令官たちは、ドイツには適しているかも知れないが、中国革命にとっては、悲劇的な打撃をもたらした戦略戦術によって、長年の革命の成果がうちこわされるのを見てきた。我慢できなくなった彼らは、ついに遵義に着いたとき、中央政治局のいわゆる遵義会議を要求し、その席で朱徳らに支持された毛沢東が、李徳とその一派の権力をとりあげた。

 

 それ以後は、毛沢東が統制した。李徳一派はその後もずっと紅軍と行動を共にし、ほかの人と変わりない宿泊給与を与えられた。だが、それ以外では、彼らは紅軍にいないのも同然だった。だれひとり言葉をかわすものもなかった。彼らは中国のボイコットにあったということである。それは実に徹底したものであった。

 

 百対一の劣勢だったが、紅軍は今度は敵に立ち向かい、4ヵ月にわたって、朱や毛が得意とする機動戦を展開しはじめた。省軍閥のアヘンびたりの部隊は問題ではなく、まもなく、たたきつけられて、動けなくなってしまった、と朱将軍はかたった。しかし、貴州省内には、蒋介石の精兵20万が集結し、それを指揮するため、蒋自身が省都貴陽に乗りこんできた。