Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

朱徳の戦死を報じる国内外の新聞 『偉大なる道』第9巻①ー11

 貴州会戦の話の途中で、私が保存していた国内外の新聞の古い切り抜きを朱将軍に見せた。それは彼の死を報じたり「確認」したりしたものだった。ロイター通信特派員の中国人トーマス・チョウが書いた記事などは、その当時中国や西洋の新聞が紅軍についてどんな報道をしていたかという典型的な例である。1935年4月9日付けの第一報は、

 

 「朱徳がツァーツー地区の猪頭山の戦闘で戦死したことがいまや判明した。朱は部隊を指揮して、貴陽をねらっていた……彼の死体は柩に入れずに、紅い絹で包んで側近にかつがれていた……彼は死ぬ前重傷で苦しんだ……彼のしたしい部下たちは、命からがらの逃走中にしばしの機会がみつかると、ひっきりなしにやってきて、紅い絹に包まれた死体の前に供物をささげた……確実な情報によれば、現在紅軍の人員は1万人ほどにすぎない」

 

 この報道を読む朱将軍の口のあたりに、さげすむような苦笑がうかんだ。これが10回目ぐらいの彼の死亡記事だった。彼は切り抜きをかたわらに押しやっていった。

 

 「私はいつか上海『申報』で、アメリカYMCAの代表が、紅軍の募兵のことを話しているのを読んだことがあるが、紅軍は部落を包囲して、入隊に応じないものの耳を斬り落とす、というような内容だった」

 

 私は朱将軍に、負傷したことがあるかたずねてみた。「ない」と将軍はこたえた。「生まれてから一度も病気をしたことがなかった。が、実をいうと、大雪山にいたころ風邪をひいた。……すると国民党は何度も私が死んだと報道した。こんなことだから、うっかりほんとのこともいえない。

 

 「蒋介石は、私や毛その他の首に25万元の懸賞をかけた。彼は、小隊長以上の階級別の首の値段表まで印刷した。そしてそれを飛行機で、わが軍の戦線の上にまいた。紅軍の連中は、自分の首の名が表に出てなかったり、すごく安い値段だったりしたら、侮辱を感じたものだ」