Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

薫必武から聞きとった來金山越えの話 『偉大なる道』第9巻③ー4

 來金山越えの話のなかでは、薫(トウ)必武からの聞き取りが一番おもしろかった。薫は五十代の知識人で、共産党創立メンバーのひとりだった。彼は山越えの模様を次のようにかたった。「われわれは明け方出発した。道はまったくなかったが、百姓たちがいうには、山を越えて部族民が来襲するというから、あいつらにできるんだから、われわれも越せるはずだ。そこで頂上近くの峠を目指して、真っすぐに山にいどんだ。濃い霧が立ちこめてきて、風もひどくなった。途中から雨が降りだした。だんだん高くなると恐ろしい雹が降ってきた。そして呼吸が苦しくなるほど空気が稀薄になってきた。話をすることはまったくできなかった。おそろしいほど気温が下がって、吐く息が凍り、手や唇が紫色になった。人も馬もよろめいた。切り立った山の裂け目に落ちて、永久に消えてしまったものもいる。すわりこんで休めば、その場で凍え死ぬ。疲れきった政治工作員たちは、峠はもうすぐだと、身振りしたり肩をたたいたりして、人びとを励まし歩かせた。

 「夜になるまでに、1万6千フィート(4877メートル)の高度で峠を越した。その夜は人の気配のない谷間で野営した。大抵のものが疲労でぐったりして動けなくなったとき、朱将軍はいつもの通り巡察してまわった。部隊といっしょに歩いたのだから、彼も疲れていた。だが何ものも彼の日課をさまたげるものはない。彼はポケットにあった小さな乾し肉を私にくれた。最悪の峠を越したから、懋功まではあとほんの数日だ、とみなを元気づけた。

 

 「敵の爆撃機を避けるため、われわれは夜中に起きて次の山に登りだした。雨が降ってきて、雪になった。猛烈な風が吹きつけて、寒さと疲労のため多くの死人が出た。

 

 「この山脈の最後の山は麓から頂上まで80里(43キロ)あったが、これもおそるべきものだった。ここで数百人が死んだ。彼らは休もうとして横になったまま、ふたたび起き上がれなかったのだ。途中で道傍に横たわっている人を見かけて、近づいて足を引っぱってみて、死んでいることがわかる場合がたびたびあった。

 

 「ついにある谷間に着いて、部族民の小屋を見かけた。われわれは寄り集まって、人家を見つけたということだけで喜び合ったものだ。われわれが中国人だから、部族民はみな逃げていた。何世紀も続いた残酷な圧制が、あらゆる中国人に対する恐怖と憎悪を植えつけたのだ。われわれも何人かのロロ族を同伴していたが、彼らにもこの地方の部族民の言葉はわからなかった。

 

 「私は日づけがはっきりしなくなっていたが、ヤクの皮でできた黒い天幕や小屋のある部族民の部落が点在する大きな谷に到着したのは、多分6月の中旬か下旬だったと思う。そこには、大麦や2種類の小麦や、粟や豆などの広い畑があった。豚、ヤク、羊や山羊の群れがいた。われわれは部族民たちと出来る限り友好関係を結んで、彼らから食糧を買い、買ったものには国幣で支払いをした。

 

 「そのときには、病人や疲労し切ったものがすごい数に達していたから、主力はなお1週間ここにとどまり、その間、彭徳懐が11個連隊をひきいて先行し、懋功、両河口、理番、茂県地区で第四方面軍と連絡をとることに決定した。第四方面軍は、数ヵ月前からそれらの地方を占領していた。しかしそこに達するには、われわれはなお多くの山や川を越えなければならなかった。もっともその山はこれまでのような恐ろしいものではなかったが、この地方一帯には獰猛(どうもう)なファン族が住んでいて、われわれの前進をこばんで、いたるところで挑戦してきた」