Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

張国燾と第四方面軍の実態 『偉大なる道』第9巻③ー7

 ある政治工作員の説明によれば、こんな状況だった。


 「第四方面軍には5万人の兵隊がいた。四川、湖南、湖北出身の身体が大きい勇敢な連中だった。彼らはもともと貧農や農奴だったので、何でもする気になっていた。高い英雄主義を発揮して戦ったし、よく困苦にも耐えた。張国燾は、物質的にはよく彼らの面倒をみた――食べ物もよかったし衣服は十分ゆきわたっていた。だが、政治的、一般的な教育の点では、ほとんど何もしなかった。張は中央委員会から第四方面軍の政治委員に任命されていたのだ。だからその任務ははっきりしている――部隊を政治的に啓蒙して、軍事指導者の野心の道具にならないようにすることが任務だったはずだ。ji

 

 「張国燾は、第四方面軍を彼自身の個人的な道具にしてしまった。国民党のやり方にならって、彼の意のままになる将校の有力な派閥をつくった。軍の組織を国民党式にし、国民党と同じ階級制をとりいれたりした。また彼自身や彼の派閥の連中を特別扱いにした――たとえば一番上等な衣服や食事をとったり、自分と護衛兵の分として、馬30頭をとりのけておいたりした。

 

 「もちろん毛や朱や中央軍の他の将校も、めいめいが馬をもっていた。毛は病気だったので、馬に乗せられたし、ひとりの護衛がついていた。朱徳にも護衛がひとりついた。しかし朱徳は部隊を検閲する時以外は、自分の馬にほかのものを乗せた。長征のあいだ全軍を指揮する責任のある身だから、とみなが何回も抗議したが、彼は自分は生まれつき丈夫だからいいが、馬を必要とする人がもっとほかにいる、と答えていた。

 

 「張国燾は中央軍全体を軽蔑した。というのは、われわれはひどくボロボロで、いためつられており、数からいえば、第四方面軍より弱かったからだ。われわれは江西をはなれるまでに、百万の敵軍を相手に何ヵ月も戦いつづけてきた。部隊は、戦場から直接そのまま長征の途についたのだ。平原や山河をこえる戦闘と行軍の9ヵ月のあいだに、われわれは大きな損害をこうむった。傷病兵の多くは、農民のところに残してきたし、パルチザン戦を展開するため、いくつかの中隊を途中においてきた。だから懋功に着いたときには、われわれの軍は4万5千人に減っていた。