Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

張国燾に捕虜にされた朱徳 『偉大なる道』第9巻③ー9

 「会議は大いに荒れたが、最後に張は、第四方面軍でおこなわれている軍閥のようなしきたりややり方を、完全に改めることを約束した。しかし、蒋介石が前途に10万の軍隊を投入していることを理由に、北進政策への反対は撤回しなかった。最善の策は、来た道を天全までもどって、チベットの町打籠炉を占領し、西康省に勢力を張ることだといった。しかしその意見は否決され、北進政策が再確認された。

  
 「朱徳は張国燾に向かって、蒋介石も10万の軍隊を送り込んだが、わが軍もおよそ10万いるではないか、といった。そして、第四方面軍は十分休んで良好な状態だから、戦略的な要所である松潘地方を占領し、北進の道をうちひらくことにしてはどうか、と提案した。張は、敵の防備が厳重なことを理由に、あたまから拒絶した。

 

 「最後に、2つの縦隊に分かれて北進を継続することで妥協がついた。第一の東縦隊は毛沢東が指揮し、南からきた中央軍の主力をもって編成された。第二の西縦隊は朱徳の指揮下に(参謀長は劉伯承)、張国燾の第四方面軍と南方からきた第九、第五軍団で編成された。

 

 「われわれは、ただちに行動をおこした。東縦隊は、松潘から70マイル(113キロ)の毛児蓋につき、そこで大草原を横断する準備と、彭徳懐軍の到着を待つために3週間とどまった。彭軍は全軍の食糧収集にあたっていた。彼らはまた途中の部族民に部族政府を組織させた。

 

 「西縦隊はダイキョウライ山脈から降りてくる激流のひとつの岸に達し、そこで休止して渡河点を探した。張国燾は、この川をわたることは不可能だから西康省に引き返す以外ない、と主張した――それが前々から彼が望んでいたことだった。そして朱徳と劉伯承も、彼とともに引き返すべきだといった。四川省出身者である朱と劉の名声は中国西部一帯に鳴りひびいていたので、張国燾はそれを利用したかったのだ。もう一つの理由は、軍でただひとつのラジオ発信機を彼らが持っていたことだった。

 

 「朱将軍と劉参謀長は、渡河点は見つかると思うが、もし見つからなければ、毛児蓋で東縦隊といっしょになって長征を継続すべきだ、といった。その晩、張国燾は第四方面軍の特別部隊をひきいて総司令部を包囲し、朱徳と彼の参謀を捕虜にした。張は朱徳に、2つの命令に従うことを要求した。