Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

蒋介石抑留の全世界への波紋 『偉大なる道』第10巻①ー3

 「西安事変」の詳細はまだまとめられていないし、後に蒋介石夫妻の名で刊行された本(蒋介石夫妻著『西安回顧録』上海1937年刊)も事実をかたっていない。否定してはいるが、蒋は内戦の停止――西安事変によってすでに実現していた――と、抗日民族統一戦線の結成について、共産党と交渉を始めることに同意した。

 

蒋の抑留は全世界の反動たちの活動をうながした。満州華北の日本の将軍たちは、ただちに天津に集まって、秘密軍事会議をひらいた――全面的中国占領の時機が来たかどうかを決めるためだったことは疑いない。ムッソリーニの娘――彼女の夫は前駐華大使だったが――は狂気のように青年元帥に打電して、蒋の釈放をもとめた。またアメリカ、イギリス、フランスなどの外交官も、本国との情報連絡に狂奔していた。中国にあるアメリカや国民党の放送局は、朱徳将軍が西安に乗りこんだとか、城壁に赤旗がひるがえっているとか、紅軍が、西安の北郊で、掠奪、虐殺、かよわい女たちの強姦を手当たりしだいにはじめた、という放送をした。

 

ナチのドイツでは、もっと手のこんだ陰険な事件が起こっていた。南京政府の前行政院長汪精衛は、何年か前に十九路軍を裏切ったことからその青年将校に狙撃されて受けた傷の治療のために、ドイツにきていた。蒋介石逮捕のニュースを耳にするとすぐ汪は、ベルリンに急行して、ヒトラーと相談した。ヒトラーは、蒋が西安で処刑されるだろうと予想し、汪に南京政府の実権をとらせて、中国を枢軸陣営に引き入れようと、彼を飛行機に乗せて本国に送りとどけた。

 

中国を枢軸側に引きずり込もうとする、こうした国際的な動きがあったこと――このことが、当時モスクワの新聞社説で蒋の逮捕を「日本の陰謀」と決めつけた理由を、説明することができる唯一の事情ではないかと思われる。このモスクワの非難は、東北軍のあいだに大きな反感を生んだ。しかしまた、この非難は、この際蒋に危害を加えることは、ファシストを援助することになるとモスクワが危惧している、ということを共産主義者にはっきりわからせた。