Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

南京事件と国民党の思惑 『偉大なる道』第10巻②ー2

 私(スメドレー)は、八路軍が前線に出発してから1ヵ月後に、五台山で、朱徳将軍の司令部に加わった。山西省の東北部にある五台山は、当時日本軍の後方になっていた。9月25日と26日の両日、林彪の指揮する第115師団は長城の平荊関で日本軍と戦って、中国最初の勝利を勝ちとった。

 

 一方、この間、南京の共産党側代表は、紅軍主力が長征に出た後に江西や福建にのこった紅軍遊撃隊の集結を、蒋介石に承認させようと交渉をつづけていた。しかし南京が陥落し、20万の市民や捕虜が虐殺された後になって、やっと軍政部長は命令を出して、紅軍遊撃隊に、揚子江下流地域に集結して新四軍を編成せよといった。

 

 それらの遊撃隊のやせ細ったぼろぼろの農民たちが、元のソビエト地区の山を出て行軍してゆくと、地主や民団が、いたるところで待ち伏せして狙撃したり殺したりした。指揮官の頂英と陳毅は、歯をくいしばって、部下に一発も応射するなと命令し、夜間行軍で危険な地域を通りぬけた。

 

 1万1千の新四軍は、1938年4月安徽省南部に集結を完了し、葉挺将軍の指揮下におかれ、頂英は副司令となった。陳毅は師長になり、南京地区に浸透するため、すみやかに行動を起こした。新四軍は揚子江に沿う幅約50マイル(80キロ)、長さ150マイル(241キロ)の戦闘区域を割りあてられた。軍政部は、あざやかな計画をしたものである。新四軍は、日本軍に対する機動作戦の場合でも、その区域から出ることを禁止された。一方その背後の南京地区には、かつてソビエト地区の掃討に使われた上海南京ギャングの配下の部隊が、配置されていた。国民党秘密警察の親玉の載笠将軍を最高司令にいただくこのギャングの部隊は、装備も給与も格段によかった。彼らの任務は、新四軍を閉じこめておいて、進出してくる日本軍の矛先に直接追い込むことだった。


 事情に通じた中国人や外国人から見ると、国民党が、これまで出来なかったこと、つまり八路軍と新四軍のせん滅を、日本軍にやらせようと期待していたことは、疑いなかった。