Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

日本軍に対する八路軍の戦略と戦術 『偉大なる道』第10巻②ー3

 私(スメドレー)が1937年10月末に五台山の朱徳将軍の司令部に着いた当時、日本軍は二方面から――山岳地帯を越えて北方と、石家荘から深い渓谷をぬって太原府に通ずる鉄道支線に沿う東方から、省都太原府にせまっていた。国民党と省の軍隊は、北の戦線で日本軍をくいとめていて、東北軍その他の国民党師団は、八路軍の第129師団といっしょに、東の戦線で支えていた。八路軍ののこりの二個師団は、敵の後方で機動と遊撃戦を展開していた。

  

 賀竜の第120師団は、山西省北部一帯を広く暴れまわっていた。一方林彪の第115師団の各連隊は、山西省東北部から河北省東部(西部の誤りか)にかけて作戦を展開していた。そして敵に占領された県城のいくつかを奪いかえしていて、京漢鉄道の爆撃さえ敢行していた。

 

 旧軍閥山西省政府主席閻錫山は、国民党の要人がみなそうであるように、敵の占領地域以外では民衆の組織と武装を許そうとしなかった。そこで、敵の占領地域で作戦する八路軍は、内戦の数年間華南で多大な力を発揮したのと同じやり方で、人民を組織し、訓練し、武装した。農民、労働者、商人、婦人、青年、少年などの組織が作られた。村や町の成人は、地区自衛隊に組織された。屈強な青年たちは抗日遊撃分隊をつくって、八路軍を補助して戦った。捕獲した小銃で武装したこれらの分隊は、八路軍の損傷を補充する貯水池であった。