Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

日本軍、太原府に進撃 『偉大なる道』第10巻②ー7

 もっとも、日本兵の死体のポケットからこんなビラが発見される以前から、八路軍政治部は敵に対する宣伝工作をやっていた。しかし「対敵工作部」はここにいたって一段と工作を進め、部隊に日本語を教えるように命令された――この活動は最後には、八路軍と新四軍全体に普及した。日本の兵隊について話すとき、朱将軍は冷ややかな憎悪をこめて、いいだした。

 

 「日本兵は捕虜になるより死をえらぶが、彼らの死にものぐるいの戦闘ぶりは、単純に勇敢さのせいとはいえない。それは罪の意識と恐怖のせいだ。ひじょうに多くのわが人民を殺し、婦女に暴行を加えた。だからわれわれに捕まるのをおそれている。彼らは公然と『虐殺戦』を自慢している。そして彼らが捕えた中国兵をなぶり殺しにしているように、われわれも彼らをなぶり殺すものと考えている。今後は日本兵の捕虜をつかまえることに特別の注意をはらおう」

 

 こんな話のあった翌日、朱将軍はただちに正太線に向かって南下するよう命令を受けた。この戦線を突破した日本軍が太原府に向かって進んでいたからである。

 

 その夜彼の司令部には、夜どおし明かりがつき、夜明けには、われわれは山西省東部のかわききった無人の山脈を越えて南方に行軍していた。賀竜の師団は山西省北部にのこった。また八路軍の卓越した行政家の一人である聶栄臻(じょうえいしん)将軍も、第115師団の二個大隊と共に五台山にとどまって、結局ここを敵の背後の強力な晋察冀(現在の山西省、河北省、遼寧省内モンゴル自治区にまたがる地域)基地に仕立てあげた。のこりの軍は、朱徳の司令部と共に移動した。そして日本軍第二十師団が、飛行機を先導に東方からなだれこむ寸前、正太線を横断した。

 

 11月はじめの3日間、八路軍の第115師団は当面の敵に損害を与えたばかりの第129師団といっしょになって、この進撃中の敵師団に対して、双方移動しながらの闘争を開始した。この戦闘ではじめて、二人の無傷の捕虜をとらえたが、ひとりは無電兵、もうひとりは歩兵大尉だった。また食糧、薬品、弾薬、冬用外套、その他各種の軍需品を満載した4百頭以上の駄馬からなる輸送隊を奪取した。この馬の世話に徴用されていた30人の満州出身の農民も、捕虜にした。

 

 しかしそうした作戦も、日本軍の11月13日の太原府占領をさまたげることはできなかった。そのあと朱将軍は、日本が権力をかためるのを妨害するため、第129師団を鉄道沿線に残しておいて、自分は総司令部と第115師団をひきいて山西省内を南下した。凍りつくような雨や吹雪に難行しながら、途中の町や村で民衆大会をひらいた。そして省内を中国の抵抗基地に変えるため、いたるところに組織者を残しておいた。