Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

抗日戦(1938年)のおそろしい時期 『偉大なる道』第10巻③ー1

 日本軍は、1938年はじめの野蛮な攻勢作戦によって山西省の主な都会を占領し、国民党軍を、黄河の向こうや省境のポケット地域に追った。五台山の八路軍基地には、6つの別々の道から敵の6つの縦隊が押し寄せた。彼らはそこで停滞したが、それから、徐々に山西省西北部に進出した。そこには賀竜の第120師団が、山西―綏遠省境の山間に別の遊撃基地を設けていた。

 

 この同じ敵の攻勢作戦で、林彪の第115師団は、地方パルチザン部隊と延安からの正規兵の支援を受けて、山西省西部で、激戦を繰り返して、日本軍が黄河に達して延安地区にわたるのを阻止した。林彪自身も、この会戦で重傷をうけた。

 

 朱徳将軍が、同志たちの反対をおしきって自ら二個連隊と新兵の一隊を指揮して太行山脈中の敵にあたり、何回かの激戦で危うく死をのがれたのも、この当時であった。

 

 朝から晩まで空をおおう爆撃機や戦闘機を先導にして、日本軍はついに山西南部のすべての都市を占領し、全省内の主な公路や鉄道の巡回警備を開始した。八路軍と農民パルチザンは、郷村を拠点にして、鉄道爆破、橋梁破壊、輸送トラックの襲撃などに懸命の努力をはらった。

 

 この攻勢作戦の間に敵の手に落ちた山西省東南部の11区は、1938年半ばまでには朱将軍の部隊によって、奪回された。新たな山岳基地が、山西―河南省境の太行山脈中に設けられた。ここの行政主任は、北京の国立大学の教授であった。

 

 朱将軍の司令部に行っていたオーストラリアの看護婦が、恐ろしい話をもって、漢口――揚子江岸の臨時首都――に帰ってきた。朱将軍の司令部は山西省東部の広い谷の中のある町にあった、と彼女はかたった。そこに着くまでに、彼女は、日本軍に爆撃されたり焼かれたりした数百の部落を通りすぎた。何千という薄く土をかけただけの墓や、無数の埋葬されていない死骸を見た。部落の中の生きのこった人たちは、その家の廃墟をうろうろしていたり、瀕死の親戚や隣人をみとったりしていた。

 

 八路軍は、わずかな食糧を民衆と分けあっていたが、とぼしいものであった。朱将軍の司令部の近くの野戦病院は、軍と一般人の傷病者であふれていた。

 

 朱徳将軍は彼女の働く場所を自由に選ばせた。そして病院で分けうるかぎりの薬をあたえた。彼女は部落をまわって仕事をしたが、ついに自身も脚気でふくれ上がった。彼女は自分の生命が危うくなったので、漢口に帰ってきたのであった。

 

この恐ろしい時期に、朱徳将軍は、手帳にいくつかの短詩を書きとめたが、後にそれを私に送ってきた。一つは

 

余は太行山に馬を乗り入れる。

白雪は絶え間なく舞う。

戦士はうすい征衣に震えつつも、

夜ごとに倭匪をたおす