Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

八路軍の抗日戦争一年目の報告 『偉大なる道』第10巻③ー2

 1938年夏の半ばころ、朱将軍は、日本軍の警戒線を西に横切って、両岸の断崖が雲に包まれている、渦巻く黄河をわたって、延安におもむいて、八路軍の抗日戦争1年目の報告をおこなった。この報告書は、その年の秋の共産党中央委員会第六回総会に提出された。

 

 報告書によれば、戦争1年目に八路軍のこうむった損傷は、2万5千で、約3分の1が戦死者だった。損傷のうち7千人が共産党員であった。この当時八路軍部隊は、陝西の山々から黄海まで、南は黄河から北は内蒙の熱河省(ここにも山岳基地を作り、満州義勇軍と協同して作戦していた)にいたる華北全域にわたって作戦を展開していた。彼らは、山東省の省都済南さえ襲撃したし、北京近郊の炭鉱や発電所も攻撃した。北京郊外6マイルにあるアメリカのミッション経営の燕京大学の学生や若干の教授は、八路遊撃隊といっしょに活動していた。また多数の燕京卒業生は大学から、直接八路軍に参加した(戦争が終わるまでに、実に7百人の燕京大卒業者が八路軍に参加した)。

 

 朱将軍は、その報告書の中で、日本軍が黄河をわたって南進し国民党軍を撃つことができないのは、華北における八路軍と民間遊撃隊の活動があるためであるとのべた。日本軍は通信線と輸送線の警備、襲撃に対する防禦、道路、橋梁の修理などに兵力を分散するため、南進を停止させられていた。彼らも、国民党の内戦10年間にやったのと同じように、堡塁を建設しはじめたし、また大量虐殺によって住民を文字通り「鎮定」しだした。

 

 朱将軍は、戦争がはじまったときの南京の会議でも提案したが、ここでふたたび、全国家的戦略の必要性と、「中国の長所と敵の短所」を基本とする戦術の採用を主張した。彼は断言する。中国は「陣地に腰をすえて敵にたたきつぶされるのを待つ」やり方では、守ることができない。そうではなくて、中国軍はすべて好適な場所と時を選んで戦うべきであり、装備のいちじるしく優秀な敵と同等の条件で戦うことは避けなければならない。