Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

内戦回避努力の最中におきた事件 『偉大なる道』第10巻③ー6

 1939年3月まで、共産主義者は内戦再開のきっかけになりそうなあらゆる事件を、おだやかにおさめるのに懸命の努力をはらっていた。ところが3月末のある深夜、国民党部隊が新四軍の湖南省の輸送連絡所を襲って、全員を生き埋めにして殺した。

 

 毛沢東朱徳は、これまでの自制を一気にすてて、重慶に厳重な抗議をたたきつけ、その電文を新聞に発表して、残虐行為の詳細を暴露した。彼らに、責任者の即時処罰、正式の謝罪、そして再発防止の保証を要求した。

 

 何らかの善後策がとられた。だがこの事件そのものは、ある反共文書のもたらした結果であった。その写しを私も見た。それは国民党特務団が発行したもので、国民党軍に秘密に流し込まれていたものであった。

 

 8月には、朱将軍は石友三の行動に関する極秘情報を、蒋介石に打電したが、それによれば、石友三は河北―河南―山東の省境にいた国民党第六軍の司令官でありながら、日本軍と協同して八路軍に対する攻撃をおこなった。彼は長い親日的な前歴をもつ無分別な軍閥だが、蒋総統は朱徳の非難を即座にしりぞけた。

 

 朱徳将軍は非難攻撃をくりかえした。蒋介石は返事をしなかった。8月24日、朱徳彭徳懐は石友三の命令書の一部を引用して詳細な証拠を蒋あてに打電した。その命令書は次のようなものだった。

 

 「蒋総統の命令により、そうしてわが国土、人民、生存、および発展のため、わが軍は抵抗戦争の障碍である共産匪を絶滅しなければならない。……われわれは現在の段階においてはまず共産匪を静粛するべきであり、第二段階において対日戦を遂行するべきである。

 

 一、第六軍が日本軍と戦闘に入った場合は即座に後退し、代表者を日本におくって事情を説明すること。日本機が飛来した際は、屋上に白布をひろげ、射撃しないよう部隊に命令すること」

 

 これに続いて日本軍との通信方法を説明する命令が規定してあった――昼間は手旗信号、夜間は発火信号。また行進中は第六軍と日本軍は少なくとも十里(三里が1マイル)の距離をおくように規定されていた。さらに日本軍との了解によって、第六軍は夜8時以後は行動しないことになっていた。最後に命令書は次のように指示していた――

 

 「第六軍が共産匪に挑戦されて営外行動をとる場合は、日本軍に通告しなければならない。必要な場合は兵を出して、日本軍の共産匪討伐を援助する」

 

 蒋総統は、この電文はつくりごとであると否定したが、石友三の反逆行為が目にあまるようになったので、数ヵ月後にはついに彼を逮捕、審判して射殺せざるを得なくなった。この処刑のあと、ある国民党政治家が私の面前でこういったものだ。

 

 「石友三は悪いやつじゃなかった。彼は、反逆者だったものだけが愛国主義の美しさをほんとうに理解することができるといっていた」