Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

八路軍に対する蒋介石の軍事攻撃 『偉大なる道』第10巻③ー7

 1939年12月ごろには、内戦の危機がますます高まってきたので、朱徳将軍は前線をはなれて延安にかえり、毛沢東や中央委員会と常に接触を保つことが必要になった。3年後に私にくれた手紙の中で、「八路軍に対する蒋介石の公然たる軍事行動の最初のものは、1939年の12月事件であった」と書いている。

 

 この「事件」は、その他の二つの事件とほとんど同じ時に発生した。一つは、山西省南部にいた朱懐冰の指揮する国民党軍が、日本軍の八路軍掃討作戦に公然と参加したことである。それとほとんど同時に、綏遠の国民党軍と日本軍は、延安辺区の北境から八路軍にたいする同時攻撃を開始した。胡宗南将軍はこれに呼応して延安辺区の西南から攻撃に出た。胡将軍は飛行機と砲兵をくり出して作戦した結果、数百の部落を破壊し、数千の人民を殺傷して、辺区の多数の県を占領した。

 

 この国民党の攻撃の露骨さは、外国の通信社さえ報道したくらいだった。たとえば1940年1月6日の『ニューヨーク・タイムズ』は、朱将軍が「中央政府軍の攻撃の停止を要求する強硬なメッセージを蒋介石総統におくった」と報じ、「共産党は日本に対して戦っているところを背後から攻撃された」という朱将軍の非難を引用していた。

 

 朱将軍は、1940年の年次軍事報告やその他の論文の中で、1940年は大規模な内戦の再開が不可避と思われるくらい危険信号の多い年だった、とのべている。これは日本に有利な情勢の展開に押されて、重慶が分解しはじめた時期だった。そうした情勢というのは、①雲南省に通ずるテン越鉄道の無期限閉鎖とビルマ公路の一次閉鎖――これによって重慶は海港からの軍需品供給が絶たれる。②ヨーロッパ戦争の開始。③汪精衞を頭領とする日本の傀儡「中央政府」――その目標は共産主義の絶滅であると宣言された――の設立。