Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

日本軍に対する百団出撃の戦果 『偉大なる道』第10巻③ー9

 朱将軍が私(スメドレー)にくれた手紙によると、この驚異的な攻勢に参加した八路軍の百団(百個連隊)はすべて志願によって編成されたもので、日本軍の「封鎖せん滅」作戦を打破し、打ち負かそうという強烈な熱意をもつものから選ばれた。八路軍は全部隊からこれに参加したが、義勇隊では最も強いものだけが百団に加えられた。

 

 全華北は陝西北部の山岳から東の海岸まで、南は黄河から満州まですべて戦場となり、5ヵ月にわたって日夜激しい戦いがくり返された。百個連隊が経済、交通、封鎖機構など敵の全体制に襲いかかったのだから、戦いは惨烈をきわめた。敵のおさえていた炭鉱や発電所、鉄道、橋梁、公路、列車や電信施設などが破壊された。郷村には電信電話線や電柱が散乱した。華北の鉄道は広範囲に切断され、枕木は運び去られ、レールは山岳基地の小兵器廠に運ばれた。敵のトラックや自動車が無数に破壊され、山東沿岸の港では船が爆破された。また済南や芝フの倉庫や役所が打ちこわされた。解放された鉄道や鉱山の数千人の労働者が八路軍に加わった。

 

 12月末この作戦が終わったときの戦果は、破壊した日本軍の堡塁2,933、日本軍の死傷者は将校18人を含む20,645人、捕虜281人であった。その他に、中国人傀儡部隊の51,000以上を殺傷し、18,407人を捕虜にした。その約半数がもとの国民党軍の兵隊であった。また莫大な武器弾薬その他を鹵獲(ろかく)して利用した。

 

 こうした情勢と国民党の反応を日本人はどう考えたか。それは東京の反動新聞『国民新聞』の1940年12月27日付の社説(国共紛争)が端的にしめしていた――

 

 「重慶中国共産党の影響力の増大に苦慮していることはたしかだ……揚子江下流における新四軍の跳梁は平和に対する脅威になっている。……津浦線の輸送は非常な打撃をうけている。八路軍華北全体に滲透して、平和維持のガンをなしている。……蒋一派はいまジレンマに当面している。……もし重慶共産主義者の鎮定に失敗すれば、日本も共産党勢力のため重大な影響をこうむる事態になることは、考えられないことではない」(以上概要)