Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

新四軍への撤退命令の真意 『偉大なる道』第10巻③ー10

 重慶が日本の演出によってそうしたのか、たまたま日本と同じ結論に達したのかわからないが、とにかく重慶最高司令部は、1940年12月、新四軍に向かって、2年近く作戦した戦闘地区から撤退するように命じた。そして、特定の地点で揚子江をわたり、指定された道順をとおって華北に向かうことを命令した。重慶はすでにその前から新四軍に対する軍事費の供給を中止していたので、軍は食糧もとぼしく、まだ冬服も持たない状態だった。

 

 葉挺将軍は、最高司令部と交渉した。揚子江流域から強制的に新四軍を立ちのかせるのは、日本との降伏条件を容易にするためであることを、彼は見ぬいていた。そして新四軍が指定された道順を進めば、日本軍と傀儡部隊にせん滅されることも、知っていた。4万に達する彼の部隊は、大部分がこの地方の義勇隊だった――この地方に家のある農民か、または上海、南京その他日本の占領都市から逃げてきた労働者や知識階級だった。彼らは、このよく知っている土地で、郷土を守るために善戦した。

 

 その願いは拒絶され、撤退命令がくりかえされた。そこでやむなく新四軍は命令を受けいれた。だが、延滞している軍費や、弾薬、冬服の支給、そして任意の経路で北進することの承認、などを要求した。

 

 重慶は延滞していた軍費20万元と弾薬を支給したが、冬服はわたさなかった。1941年1月7日までに、9千人をのぞく新四軍全員が彼らの選んだ地点で揚子江をわたりおわった。残った9千人は、司令部、軍・政訓練学校、患者でいっぱいの後方基地病院2つ、そして司令部衛兵と師団の一部だった。

 

 1月7日、これらののこった部隊が揚子江に向かって行進し始めたとき、他の地区から入り込んできた5万の国民党部隊に包囲された。血なまぐさい虐殺がはじまった。副司令頂英は行動中に殺され、葉挺将軍は負傷してとらえられた。病院部隊にいた傷病兵は簡単につき殺された。看護婦や政治工作員は死者の銃をとって弾薬のつきるまで戦った。その後森の木に首をつって自殺した。