Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

揚子江虐殺に対する毛沢東と朱徳の抗議 『偉大なる道』第10巻③ー12

 毛沢東朱徳が、ふたたび乗りだした。彼らはすぐさま内戦に突入するのを防ぐため、きわめて慎重ではあったが、事実は詳細に暴露して、そして、重慶は葉挺将軍その他新四軍の将兵を釈放し復職させ、事態の収拾をはかること、この悲劇の責任者を処罰すること、死亡者遺族に補償すること、このような攻撃が再発せぬよう公式の保証を与えること、を要求した。

 

 さらに朱と毛は、中国政府の一部のファシストに対して、断固たる攻撃を加え、彼らは日本といっしょに、八路軍と新四軍を掃討し、和平と交換に華北を日本にひきわたし、中国を枢軸陣営に引きこむことを企てているといった。そして内戦と対日降伏を阻止するため、重慶政府の基盤をひろげ、各党各派の代表を包含させるよう要求した。

 

 これに対する重慶の答えは、八路軍に対する現金、食糧、その他一切の供給を停止し、胡宗南に命じて延安地区の封鎖をかためることだった。日本がせん滅工作を続けている一方で、八路軍を餓死させる執拗な努力がおこなわれていたからである。

 

 新四軍の悲劇の2ヵ月後、新四軍「残党」の掃討作戦をやっていた蒋介石の二人の将軍が、5万の国民党部隊をひきいて、日本軍に寝がえった。蒋総統は、彼らに譴責(けんせき)もせず、官位剥奪もせず、懲罰軍をさし向けることもしなかった。

 

 八路軍と新四軍は、これから後は、もっぱら彼ら自身と人民との協力でつくり出された力にたよるほかなかった。共産主義者は、内戦時代の革命軍事委員会を復活し、解放区全体に指令する延安政府を設置した。朱将軍は、陳毅を新四軍の司令官に任命し、揚子江下流地区で部隊を再集結して、日本と傀儡に対する戦いを続けるよう、国民党軍から攻撃された場合は防衛するよう、命じた。