Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

抗日戦をつづけるための自給・自立 『偉大なる道』第10巻③ー13

 両共産軍と華北華中の人民は、彼らの胃袋を自分たちで満たさなければならないという境遇におちいりながらも、いわゆる「大業」に着手したのだが、それは数年後にその結果を見たものは驚異の目をみはらせるに十分であった。何ヵ月かの惨憺たる苦闘ののち、新四軍は華北にあるような安定した遊撃基地をつくった。その管下の全地域で、平等普通選挙権と自由選挙をともなう公民権が導入された。行政機関、小工場、兵器廠、病院、学校、広報施設なども華北と同じ型のものが作られた。

 

 重慶は公然とした内戦政策からはしりぞいた。第二次世界大戦が終わった1945年まで、武装休戦の状態がつづいた。共産党側代表は以前のとおり重慶に駐在したが、孤立させられていた。彼らの新聞『新華日報』は最も過酷な検閲の下で、辛うじて発行を認められていた。

 

 共産主義者たちはいつもこういっていた――可能なかぎり統一戦線を維持するが、攻撃されたら防衛し、そして従来どおり孫逸仙博士の三民主義と基本政策の実現につとめる。そして国民党にも同じことをするようによびかけた。

 

 後に私に送った手紙の中で、朱将軍は次のようにのべている。

 

「金と軍需品の供給を絶たれたが、いまやわが軍は、抗日戦をつづけるために統一された指揮の下にまとまった。われわれは精力的な生産運動を開始し、部隊も党その他の機関も、すべてこれに参加した。すべての人びとが、農耕、牧畜、紡織、その他われわれ自身と華北人民との自給自足に必要なあらゆる種類の仕事ではたらいた。最初の年はひどかったが、事態はその後しだいに改善された。最初の年の苦難のもとで、われわれの新しい政治、経済、軍事の政策を強化し、新民主主義を発展させたが、それについては毛同志が同じ名の著書の中で定義をあたえている。われわれと人民とは相互に依存しあっているが、われわれの生産運動が累進的に成長するにつれ、わが軍は完全に自給自足になり、人民によりかからなくてもよくなるだろう」

 

 歴史との「出合い」をつづけることは容易なことではない。