Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

1941年、毛沢東によって自給生産運動開始 『偉大なる道』第11巻①ー1

      雲霞のごとき将兵

      大風のごとく歌いひびかせる。

      砲閃、日帝をしりぞかしむ。

      血はわが山河をぬらす。  

                       朱徳


 1941年と42年は、解放区の人民と部隊が、血と困苦によって鍛えられた年であった。

 

 事態はどんな鈍感な人にもわかるほど明白だった。国民党が外界からあらゆる供給を遮断して共産主義者を鉄の封鎖にとじこめる一方、日本軍は、戦場で彼らを掃討しようと努力していた。


 共産主義者は、1941年前半には背後からの攻撃と前線の戦闘にそなえる準備をした。国民党による封鎖がなされたすぐあと、毛沢東は公式に「自給生産運動」を宣言したが、これが時とともに華北の外貌を変えていき、長期間の軍事的抵抗を可能にした。この運動について毛沢東はこう説明した。

 

 「われわれの政策は、われわれの自力による更生の道である。地代と利子の引下げは、相互援助の熱意をたかめ、農民の生産力を高めた。われわれの経験からすると、相互援助によって一個人の生産能力は4倍になっている。……いったん相互援助が習慣になると、生産高が非常に増加するだけでなく、いろいろな意味の新しい結果が生ずる。政治的水準が高まるだろうし、ひとびとは文化的にも向上するだろう。ごろつきは矯正され、慣習も変わってきて、われわれの農村社会はまったく新たな生産力になる。そうなると、戦争の続行や飢饉との闘争が可能になるだけでなく、反撃に用いる大量の食糧や日常必需品の蓄積も可能になる。農民だけでなく、軍、党、政府機関もすべていっしょに、生産に従事しなければならない」

 

 生産運動は、解放区数千マイルにわたって各地での、住民各層――紅軍の各部隊を含む――の計画会議を手はじめに、開催された。何千万もの人びとが、互助会や、変工隊や、工業、消費、運輸の合作社や、新設の小工場やその他の施設で働きだした。だれひとり例外はなかった。