Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

工業合作社 『偉大なる道』第11巻①ー3

 育児の話から、工業合作社の話にうつる。「農業と工業の間をつなぐ橋渡しになり、また商業を活気づけるには」工業合作社を大規模に発展させるべきだ、と彼はいう。合作社は、金儲けの機関になってはいけないし、製品を買い占めして値段をつり上げたり、「モノ不足を波及」させたりしてはならない。辺区政府は、合作社と家内工業の振興をきわめて重視している、と彼はつづけた。そのために租税を免除したり、名目的な租税だけにしたりしているし、また高い生産水準をあげた男や女に、労働英雄の名誉を与えたりしている。

 

 「ある婦人の生産指導者が、私にむかって、2百元の資金があるが何に使ったらよいかわからないといった。私は、その金は20錘の紡機を2台つくるのに使ったらいいと思う。この機械は、2週間練習すれば、女一人で一日に14ポンドの毛糸を作ることができる。このうち良品を5ポンドより出して、良質の毛糸をつむげば、織物工場はそれを30元で買う。品質の悪い毛は毛布やじゅうたんに織ることができる。また私たちがたくさん生産する亜麻を毛にまぜて、強くてもちのいい温い織物をつくることもできる」

 

 そうした集まりの後、彼は日本軍から分捕った大きな馬に乗って、南泥湾地区によく出かけていった。王震が指揮する八路軍の一旅団がこの地帯に駐屯して、黄河を隔てた対岸の日本軍と、南方を封鎖する国民党軍に対して延安を防衛していた。

 

 軍の生産運動、――それを彼は「南泥湾運動」とよんだ――は朱将軍の誇りであり喜びだった。この強力な旅団が、南泥湾地区に入ったときは、あたり一面荒地だった。建物も洞窟もなく、ところどころに部落の廃墟や廃寺が見られるだけだった。

 

 朱将軍は部隊にうったえた。――国民党の辺区封鎖は兵隊や一般人を飢餓に追いこみ、戦闘で日本人にやっつけさせるのが目的だ。軍も人民も、このまま飢えさせられたり、やっつけられたりするつもりは毛頭ない。また軍は人民をはなれて生きることができるとは思わない。

 

 王震旅団は付近を調べて、古い廃寺で2千ポンドの鐘を見つけた。この鐘で最初のすきや鍬、丘陵の傾斜に住居を掘る最初のつるはしやシャベル、最初の大工道具や井戸掘りの道具、をつくった。部隊はこの荒地を、穀物や野菜の畑に変えはじめた。遠くの村から、少しばかりの牛馬、山羊、羊、豚などのつがいを買ってきて、それを増やしていった。彼らはたびたび生産会議をひらき、紡績合作社をつくり、また教育をつづけ、演劇グループさえ作った。戦争地帯から辺区に流れこんだ数千人の避難者を、この土地に迎え入れた。そして彼らに、井戸を掘ってやったり、紡機をつくってやったり、合作社や初級学校、文盲教育の夜学校、換工隊、などを作るのを援助してやったりした。