Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

華北日本軍の総司令官岡村寧次の「三光」戦略 『偉大なる道』第11巻①ー4

 自給生産運動に着手した1941年7月はじめ、華北日本軍の総司令官岡村寧次は、30万の日本軍を解放区に入れ、彼のいわゆる「三光」戦略――殺しつくし、焼きつくし、掠奪しつくす――を開始した。

 

 1941年の岡村の「三光」攻勢は、はっきりした目的があり、それは「太平洋戦争にそなえて華北を粛清する」ことだった。入りこんできた日本軍の部隊は、県全体を包囲し封鎖して殺戮した。山西省東南のある小さな県の場合など、典型的だが、日本軍はここで、たとえ老人子どもでも区別せず、家にとどまっていた一般民1万3千人を殺した。八路軍が奪回したある町では、その広場に老若あらゆる年齢の婦女子数百の裸の死体がころがっていた。

 

 日本軍はこの「三光」攻勢の前後、河北省中部だけでも自動車道路に沿って2,400マイルの深い溝と400マイルの防壁を設けた。華北一帯の鉄道の両側にも高い障壁と防御壕がつくられた。日本軍は、食糧と弾薬を入れる地下室がある防舎の連鎖を建設した。

 

 華北平野の民衆もまた地下を利用した。彼らは地下防空壕を掘り、そこから長いトンネルでのばして、しばしば隣部落と連結する場合があった。敵に襲撃された部落は、トンネルを通って他の部落へ避難することができたし、退避後の無人の部落に入っている敵兵を、八路軍が突然地下からあらわれて、包囲したこともあった。

 

 民衆は地雷の作り方をならって、部落を守るために、まわりの道にまいた。闘争の中から生まれた「人民英雄」の中には、こんな少年もいた。村の外に出て進んでくる敵の部隊を迎えた少年は、「とめられてるから、村に案内することはできませんが、それはあの道です……」と無邪気に答え、地雷の埋まった山道をゆびさしたが、そこには部隊やパルチザン待ち伏せしていた。