Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

太平洋戦争前夜、人民軍の反撃開始 『偉大なる道』第11巻①ー5

 1941年7月1日の年次報告で、朱将軍がいうには、八路軍と新四軍はひとり5発か10発の銃弾しかない状態で戦闘をはじめたことがたびたびあり、華北の民衆や部隊が大きな損害をこうむったのは、国民党のきびしい封鎖の力によるものであった。


 1941年12月の第1週、敵が、華北の人民軍を半壊にしたから安心して太平洋戦争にかかれる、と考えたその矢先「われわれは反撃を開始した。日本が華北から軍隊を南太平洋に転用しなかったのはそのためだ」と朱将軍はのちに報告している。

 

 この反撃にともなって、生産運動も高揚した。人民軍が一県一県と回復してゆくと、一般民が帰ってきて、こわされた家の再建にかかり、そして、こうした回復直後の地域には、延安から穀物と家畜が運びこまれた。

 

 1943年の年次報告では、この反撃のあいだに捕獲した弾薬、食糧、医薬品などの量は報告されなかった。それらの物資はすぐその場でわが軍が使用したからだ、と朱将軍はのべている。だが、その他の戦利品は、小銃95,000丁、重軽機2,000丁以上、拳銃4,027丁、対戦車砲29門、野砲73門、速射砲225門、高射砲2門に達した。その他に、無電発電機272台、野戦電話セット939組、写真機112個、ガスマスク7,201個があり、また無数の自転車、蓄音機、落下傘、日本国旗、そして数千頭の馬があった。新四軍の戦利品には「米国ガソリン592缶」というのもあった。