Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

広東と河南の飢饉と戦争暴利に苦しむ農民 『偉大なる道』第11巻②ー2

 朱将軍その他の指導者たちは、こうした事態の発展を、部隊や人民の教育に利用した。朱将軍は2月4日と5日に2つの論文を発表しているが、ひとつは中国を半植民地状態においた旧条約に関するもので、他のひとつは新条約を論じたものであった。


 新条約は「重要な前進の一歩」ではあるが、「紙の上の条約だけでは不十分であって、強力な民主主義中国と国民経済の発展によってはじめて、列強との真の平等を達成することができる」とのべた。

 

 だが中国政府が民主主義を取りいれる気配はまったく見られなかったし、また前から産業発展の努力にとって代わっていた恥ずべき買い占めと戦時不当利得を、やめる気づかいもなかった。国民党軍は「中国はもう自分の分だけの戦争はやった。こんどは英米がやる番だ」という論理で戦闘を避けることばかり考えていた。国民党の役人や軍人たちは国民経済の発展は考えないで、もっぱら買い占めと投機をやっていた。広東省の飢饉では1944年に終わるまでに百万人もの人が死んだが、その真っ最中に、日本に米を売ったりしていた。

 

 いま一つひどかったのは、同じ時期の河南省の飢饉であって、3百万人もが死んだ。河南には湯恩伯軍が駐屯していたが、租税や軍隊の糧秣として農民の種子用の穀物まで取りあげた。そしてこの穀物の大部分を金持ちしか買えないような高値で売り出した。このころ救済事業のため河南省にでかけたアメリ赤十字の代表者は、アメリカ市場よりも高値で、湯恩伯将軍から小麦を分けてもらわなければならなかった。解放区に移住しようとした何千人という飢えた農民たちは、湯将軍の機関銃で追いかえされた。河南の農民たちのあいだでこんな言葉がはやった――「われわれは4つの大きな災厄に苦しめられる――洪水、旱魃、いなご、それから湯恩伯」

 

 重慶民族主義的な大きな日刊新聞『大公報』さえ、河南の飢餓と首都重慶の豪華や戦争暴利を比較したというので、検閲にひっかかって停刊させられた。