Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

アメリカの軍事使節団、解放区へ派遣 『偉大なる道』第11巻③ー1

 日本の半官半民の通信社『同盟通信』は 1944年2月14日づけで、中国の情勢を次のように要約して、新しい年の展望をしめした。

 

 「現在中国の復興と極東の防衛にとっての唯一の障害は、共匪がまだ完全に掃討されていないことである。これらの匪賊たちは青年を扇動し、抗戦を口実に村々を破壊し、無軌道な活動をつづけ、中国人民を悲嘆と苦悩のどん底に落としいれており、新中国の進歩と大東亜新秩序の建設を阻害している。これが中国の復興と極東の防衛にとって現存する唯一の障害であるから、われわれはこれに対して精神的にも実力的にも、闘わなければならない」(当時の中国向け放送であって現在記録消滅)

 

 当時の日本の論調はだいたいこのような調子だったが、この時機は連合国のアジアにおける総反撃の前夜だった。華北の解放区は、すでに3年も一切の外部からの援助を遮断されていた。連合国の反撃がこれからはじまろうとするとき、スティルウェル将軍は、敵の軍事情報を集めるために、アメリカの軍事視察団を解放区に派遣する承認を蒋介石にもとめた。最初は拒絶され、数ヵ月もたって、やっと認められる始末であった。

 

 5月になって蒋総統は、慎重にえらんだ中国人記者を同伴させた上で、3ヵ月の期限づきで外国人特派員の西北視察を許した。短時間司令部を訪ねたぐらいで赤のプロパガンダの背後がわかるはずがない、と蒋がいったと伝えられる。彼らは西北に行く途中、西安の胡宗南部隊に立ち寄って、政治犯の集中拘置所を視察し、省軍閥閻錫山の部隊がいる山西省東南隅をとおってゆくことを決められていた。

 

 西安の集中拘置所は、すっかり手筈を整えて彼らをむかえた。そして前もってきめられた囚人がちょこちょこと進み出て、他の者を代表して話しをした。自分はもとアカだったが、自発的にここにはいって矯正してもらっているのだとそのひとりがいった。一行が延安辺区に着くまで、きまったように何人かの避難民と自称する連中にすれちがったが、彼らは、共産地区の飢餓とテロのことをしゃべるのであった。