Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

八路軍と新四軍の反撃作戦 『偉大なる道』第11巻③ー5

 「われわれ自身のことをいえば、われわれは西太后とか袁世凱、段祺瑞などといった『指導者』の系譜に名をつらねたくない。もし蒋介石にそれらの指導者たちがなぜ失敗したかがわからなければ、彼の名も間もなくその列に加えられるだろう。満州族は、専制的な圧迫や美辞麗句を利用しては、人民をおさえておけなかった。袁も段もそうだった。誰だってそんなことはできない、と私は思う。われわれは現在の独裁者に、このことを警告したいと思うだけだ」

 

 さらに朱将軍は現在の解放区では衣料と食糧の自給はできている、とかたった。手榴弾と地雷をつくるのは、家内工業でやっているが、地区基地にある小兵器廠では、まだ部隊に必要なだけの弾薬が製造できない。敵の後方での生活は悲惨な場合が多く、敵の部隊に10数回も荒らされた町村もあり、また解放区のはずれでは、国民党軍に6、70回も荒らされたところがある。それでも1942年には、解放区は縮小するどころか、むしろ拡大しはじめていた。

 

 封鎖期間のあいだじゅう、国民党は日本軍に対して消極的な「戦闘回避」政策をとっていたと朱将軍は語をついだ。攻撃されればしりぞき、もっぱら連合国の戦勝を待っていた。それは「中国はもう自分の割りあて分の戦闘はすましたから」という理屈だった。連合国の反撃に攻めたてられた日本は、ひたすら南方アジアへの大陸連絡路をひらこうとして、華南の米軍航空基地を破壊しにかかったが、飢えかけて士気のおちた国民党はその進撃につぶされ、敵は6ヵ月のうちに目的を達した。この同じ時期に、八路軍と新四軍は反撃作戦をおこなって8万平方マイルの地域から日本軍を追いだし、新たに数百万の中国人を解放した。

 

 戦争がはじまった1937年の八路軍の有効兵力は8万だったと朱将軍はつけ加えた。1944年の末には、60万の正規軍と200万以上のパルチザン補助部隊になっていた。この期間に正規軍は約40万の損傷をこうむったが、そのうち3分の1が戦死であった。