Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

日本軍の撤退とポツダム宣言 『偉大なる道』第12巻①ー7

 重慶最高司令部は、この時になっても、レンド・リース物資を満載した数百台の軍用トラックを、抗日戦のためではなく、延安辺区を封鎖する国民党軍にむけて送り出していた。

 

 同じくこの6月には、華南の日本軍部隊が、途中掠奪したり殺したりしながら、だんだん海岸地方に向かって後退しだした。その撤退したあとへ卑屈な国民党部隊が入っていって、さかんに「勝利」の宣伝をやった。ところが一方解放区の日本軍部隊は、人民軍にたたかれるまで腰をすえていた。

 

 西北の黄河湾曲部の日本軍が東に向かって撤退しだしたときには、胡宗南将軍は指一本動かさなかった。それどころか、逆に胡将軍は強力な九個師団で延安辺区をおそった。

 

 ものすごい戦闘が数週間つづいたとき、朱徳将軍と彭徳懐は何度も蒋介石に打電して、彼の部隊を原駐屯地に返すことをもとめた。そのうちに世論の非難が強くなってきて、この戦闘はしだいにおさまった。朱将軍の参謀長は、この戦闘中に八路軍で鹵獲したレンド・リース兵器のリストを、商標や一連番号といっしょに8月のはじめに発表した。

 

 「民主主義の兵器廠アメリカは、中国の封建的ファシストのために利用された」、そして「対日戦争の勝利をおくらせ、台なしにしたのだ」――参謀長はこのように非難して、この反動的な政策をやめるように、アメリカ人民と「アメリカ政府の中の民主的人士」にうったえた。延安と重慶共産主義系の新聞もこのことを書きたて、ウェデマイヤー将軍とハーレイ大使は中国の統一と民主主義を考えるルーズベルト大統領の政策をぶちこわすアメリカの反動だ、といって公然と攻撃した。

 

 国民党が延安地区を攻撃していた当時、ポツダム宣言が出た。それは日本軍国主義の無条件降伏を要求し、日本における民主主義の確立を約束したものであった。中国の憂うつはやや薄らいだ感じがした。もし日本に民主主義を約束するということならば、連合国は中国で国民党が民主主義を抑圧していることを許すはずはないからである。