Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

ソ連との関係のむずかしさ 『偉大なる道』第12巻④ー3

 毛沢東は、10月に重慶から戻ってきたあと、ひどく心臓を病んでいたので、会見できなかったが、朱将軍は率直に会談した。

 

 その当時、共産主義者の本拠地延安は、引越し最中であった。戦争が終わったとき、八路軍部隊は、工業都市の張家口から日本軍を追い出したが、そこは、延安から東北40日の行軍距離にあった。この途中にたくさんの宿泊所がもうけられ、延安から張家口やその他の場所へ移動する何千人の男女がそれを利用した。戦争中に数千人の軍事、政治の幹部を養成した有名な抗大――軍政大学――はいくつかに分割して方々の解放区に分配された。延安大学の学生も、行政の仕事につくものもあり、新しい張家口の連合大学にうつるものもあって、大部分がいなくなっていた。芸術、音楽、文学の分野で、いくつかのすぐれた作品を生んだ魯迅芸術学院は張家口にうつった。戦争中に3年課程で千人以上の医療工作員をおくりだしたピーツン医学校も、同地にうつったが、移転のとき、延安の洞窟病院の患者の大部分を連れていった。

 

 数百人の党と軍の幹部も出発していたが、毛と朱は最高幹部といっしょに延安にとどまって仕事をつづけ、蒋総統が10月10日の協定で約束した政党連合会議を召集するつもりがあるかどうか様子をみながら待機していた。

 

 アメリカの記者が、朱徳将軍にたずねた最初の質問は、満州のことと中国共産主義者ソビエト同盟の援助を受けているという国民党やアメリカ側の非難についてだった。

 

 朱将軍はこれに答えて、共産主義者は延安でも満州でもロシア人とまったく接触をもっていないと断言し、そしてロシア人は国民党よりも共産主義者を特別に援助する意思はないと思う、といった。

 

 話が国民党の満州に対する政策のことになると、彼の口調はひどく軽蔑的になるのだった。日本が満州を占領してからの長い年月のあいだ、国民党指導者たちは東北を日本にゆずる考えだったし、1937年7月7日の中日戦争勃発後に日本が占領した地域を取りかえすだけで満足していたと彼はいった。