Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

重慶協定破綻後の民主勢力のたたかい 『偉大なる道』第12巻⑤ー5

 4月になって、重慶協定が破綻したことがはっきりしたので、これに参加した共産党側の指導者11人が、飛行機で延安に向けて重慶を去った。この飛行機は途中で墜落して、乗っていた全員が死亡した。操縦者と乗務員はアメリカ人だったが、そんな小さなことは国民党秘密警察のサボタージュ行為のさまたげにはならなかった。死亡者の中には新四軍の前司令官葉挺将軍がいたが、彼は5年間の監獄生活から釈放された人で、妻と二人の子どもといっしょに遭難してしまった。

 

 中国の民主勢力はたたかった。トルーマン大統領、アメリカ議員、マーシャル将軍にあてて、保守的な実業家までふくむあらゆる層の中国人団体から抗議文が殺到した。

 

 7月には長い間敬愛されてきた名である孫逸仙の未亡人の宋慶齡が、アメリカ議会とアメリカ人民に向かって、国民党に対する彼らの援助を打ち切ることによって、混乱と飢餓と数百万の新たな死をもたらす新内乱を阻止することをもとめた。このような戦いに国民党は勝つことはできない、とも彼女は警告した。

 

 孫夫人の訴えはその他何千の抗議の場合と同じく、何の応答もなかった。

 

 7月はすでに書いた陰謀計画で全面的な内戦を予定していた月だったが、この時になっても中国に民主主義の根拠地がひとつ残っていた。それは西南の昆明にあった。そこには民主同盟の最後の機関紙――李公樸の編集する『民主週刊』があった。有名な詩人で、10年前から清華大学の文学の教授であった聞一多も、その編集陣のひとりだった。

 

 7月11日に、秘密警察が昆明の街頭で李公樸を射殺した。翌日、聞一多教授は、友人の遺骸の前で悲痛な追悼の辞をのべた。「私は今日家をあとにするとき、二度とかえらないことを覚悟した」と彼は数千の会葬者を前にしていった。そして聴衆の中の秘密警察員に向かってはっきり「出てこい」とさけびかけた。

 

 「なんという恥知らずな行為だ! 恥知らずな! 君らは生けるものを亡ぼし、死せるものを汚す!」

 

 数時間後には、聞教授も18歳になる息子の学生といっしょに昆明の街頭で射たれて死んだ。

 

 昆明の16人の民主的教授たちは、家族とともにアメリカ領事館に避難し、香港、ついで上海に飛行機ではこばれた。ほかの都市の13人の有力な学者たちは、生命の危険を賭けて、昆明殺害事件のことを国連の人権委員会に打電し、使われたピストルは消音装置のついたアメリカ製のものであることをうったえた。

 

 外国の新聞が昆明暗殺事件を詳細に暴露したし、各国の有力な知識人たちが蒋介石に抗議したので、公然とした暗殺は止まったが、秘密の誘拐や殺害は相変わらずつづいた。

 

 昆明殺害事件と同じ週に、南京の共産党側の主任連絡将校である周恩来将軍は、蒋介石の命令書の写しをマーシャル将軍に手わたしたが、その内容は蒋が部下に下した全面的内戦の開始を告げる最終命令であった。命令は人民解放軍に対する攻撃開始を7月22日と指定していた。そして実際に、1946年7月22日には、アメリカによって訓練され装備された国民党軍がアメリカ製の爆撃機や大砲を先頭に解放区に押しよせてきたのであった。