Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

在韓被爆者に寄り添った松井義子さん

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在韓被爆者の救済に中心的役割を果たした「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」の代表をなさっていた方である。

 

1998年12月に70歳で亡くなられたことを新聞の小さな死亡欄の記事で知った。

植民地だった「満州」の大連で生まれ、戦後無教会派のキリスト者として活動をなされた経歴は後日知った。

確か葬儀らしいことはしていないと記憶している。

偶然参加していた集会で司会をされていた、きりっとした痩身の姿を思い浮かべて、あの方らしい生き方でしめくくられたという印象をもった。
 
このブログの記事では、もう亡くなっておられる人には敬称はつけないけれど、この方にはとてもそんなことができない。

もう数十年前のことだけれど、松井さんに直接お会いできたこと、今でもよかったと思っている。

 

スタッフとして働いていたアジア図書館で企画した「アジアを囲む会」という集まりでお話しをしていただいたことがある。

世の中は華やかなバブル時代の記憶がまだ残っていたころだった。

テーマが硬いとやはり人の集まりは望めなく、この日もごく内輪の人の集まりになってしまったことを覚えている。

避けて通りたいテーマであったことは確かだった。

当時は「アジアブーム」といわれていた頃なので、テーマ次第では椅子が足りなくなるぐらい人が集まったので、裏方として申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

しかし松井さんはほとんど気になさらず、それまでの活動のあらましに始まり、当時何が問題になっていたのかを講演してくださった。

当日会場へは小さな軽自動車で来られていて、その車で韓国からきた人を遠方でもご自分で運転して案内していたと他の人からきいた。

講演者も講演を依頼する側も乏しい予算でやりくりしていたことを思い出す。

 

講演後は、スタッフと近所の喫茶店でお茶をご一緒した。
ちょうど真向かいにすわることができたので、
「ふるさとは陜川(ハプチョン)郡なんです」
と普段口にしない故郷の名前を出すと、
「韓国の広島といわれているところですね」
と即座に返してくださったのだが、会話がとぎれてしまった。

私もふるさとが「韓国の広島」と呼ばれていることは知っていて、
「そうであったかも知れないけれど、そうではなかったという立場」をどう表現すればいいのか、どうしても運がよかったということになりそうな気がして、ことばが続かず失礼してしまった。

ただ活動に対して敬服していることを一言いいたかったのだが。

1945年祖国が解放された頃、亡父はふるさとに戻っていたので、広島から帰国してきた原爆被爆者から直接原爆の恐ろしさを陜川(ハプチョン)郡のどこかで聞いている。

「電車が舞い上がった」と。

日本育ちの亡父は生々しい証言を聞いて、

「ああ、自分を育ててくれた日本がもうめちゃくちゃになったんだ」という感慨で胸がつぶれそうだったと。

 

機会があれば、知る人はもう誰もいないふるさとに一度訪ねてみたいと思ってきたが、国を越えた人の移動をさえぎるコロナ禍の時代、多分できないことだろうと思っている。