Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

森崎和江さんが語る植民者二世の日本語と母語

女性史の在野の研究家でもある作家森崎和江さんの父親は、日韓併合後の朝鮮半島で現地Koreanの五年生の中学校である高等普通学校の教師だった。

この普通ということばがつくと現地Koreanの学校になる。

森崎さんは1927年に朝鮮半島で生まれたのだが、ご自分の植民地体験を客観するために回想記『慶州は母の呼び声』(ちくま文庫)を書いた。

この本は個人的にとても味わいがある作品だった。

序章より

……わたしが生まれた大邱は今日の韓国の、慶尚北道大邱市である。町名の三笠町というのは植民者である日本人が名付けたのだと思う。旧市街の中の日本人住宅地の一角であり、わたしはここに産院をひらいていた日本人医師の産室で助産婦によってとりあげられた。
 三笠町という町名が生まれ、消え去ったように、他民族を侵しつつ暮らした日本人町は、いや、わたしの過ぎし日の町は今は地上にない。

 

日本人町は内地日本での故郷を異にする人びとが永住目的で新たに築いたコミュニティだった。

公務員は外地手当がつくので、ここでの暮らしはかなり豊かだったことが書かれている。
普通の家庭でお手伝いさんがいて、夏にはプールへ行ったとか、進学するために福岡に戻ったとき、農作業を日本人がしていることにびっくりしたとか。

このようにこの著作は私にとって興味深い記述が多いのだが、当時森崎さんが使っていた日本語のことに触れているところもその一つになっている。

運動会のシーンより

「先生はほとんど日本人であり、日本語で号令をかける。生徒たちの掛け声も日本語である。普通学校時代に習得してきているので、わたしたちとかわらない。わたしら植民者の子どもたちは朝鮮人の子どもたちが学校で習う日本語と同じことばを使った。それは方言のない学習用語で、標準語と言っていた。家庭でもそれを使った。
 余談めくが、敗戦後二十余年ぶりに韓国で旧友に会った時、その日本語が昔のままに、なんのなまりもないことに激しいめまいを覚えた。日本に帰って来て、その日本語と同じことばを耳にしなくなっていた。地方はもとよりのこと、東京語も、そして共通語にも地域ごとのなまりがあったから、わたしは亡霊となった自分に出会った気がした。」


父と同じ1925年生まれの金大中も流暢な日本語を話していたが、こんな日本語だったと想像する。

どうしても韓国人独特の発音上の限界は残っただろうが、日本語としてはていねいな響きを持っていたと思う。

1917年生まれの元韓国大統領パクチョンヒをはじめとする同年代の学校教育を受けた韓国人もていねいな日本語を話していたはず。

但し家庭では日本語なんて使わない。

そこが森崎和江さんのような日本人との違いである。

今風にいえば、バイリンガル

 

亡父も考えてみれば、ていねいなひびきを持つ標準語を話していたように思う。
両親が朝鮮半島出身者だったので、家庭の中ではKoreanが中心だったと思うが、亡父はなんとなく話している会話は聞き取れても話すことはできなかった。

両親は生活を維持することに必死だったろうから、子どもに母語を残す余裕もなかった。

 

話が少しずれるが、妹は結婚して英国にいるが、息子には日本語を残したかったので、小さい頃は家庭では努めて日本語で話すようにしていた。

ところが一日中忙しく働いていたりして、親の方に余裕がなくなり、とうとう日本語は話せなくなってしまったという。

現在は息子の方が母親と日本語で会話したいという理由で日本語を勉強している。

 

母語についてほぼ真っ白な子どもに異国で母語を残していく作業は、よほど生活に余裕がなければむずかしいものだと思っている。

 

というわけで、森崎さんの著書から日韓併合時代、朝鮮半島の教育現場・官公庁、日本人の家庭では方言のない学習用語である日本語が話されていたというなかなか知りえない事実を知った。